歴代 総理 大臣。 歴代内角総理大臣の血液型一覧 首相向きは何型?日本国のトップに立った政治家の体に流れた血は?

日本・世界を変えた歴代総理大臣16選!【受験生・歴史好き必見】

歴代 総理 大臣

伊藤博文(いとうひろぶみ)• 黒田清隆(くろだきよたか)• 山縣有朋(やまがたありとも)• 松方正義(まつかたまさよし)• 伊藤博文(いとうひろぶみ)• 松方正義(まつかたまさよし)• 伊藤博文(いとうひろぶみ)• 大隈重信(おおくましげのぶ)• 山縣有朋(やまがたありとも)• 伊藤博文(いとうひろぶみ)• 桂太郎(かつらたろう)• 西園寺公望(さいおんじきんもち)• 桂太郎(かつらたろう)• 西園寺公望(さいおんじきんもち)• 桂太郎 かつらたろう• 山本権兵衛 やまもとごんべえ• 大隈重信 おおくましげのぶ• 寺内正毅 てらうちまさたけ• 原敬 はらたかし• 高橋是清 たかはしこれきよ• 加藤友三郎 かとうともさぶろう• 山本権兵衛 やまもとごんべえ• 清浦奎吾 きようらけいご• 加藤高明 かとうたかあき• 若槻禮次郎 わかつきれいじろう• 田中義一 たなかぎいち• 濱口雄幸 はまぐちおさち• 若槻禮次郎 わかつきれいじろう• 犬養毅 いぬかいつよし• 斎藤実 さいとうまこと• 岡田啓介 おかだけいすけ• 広田弘毅 ひろたこうき• 林銑十郎 はやしせんじゅうろう• 近衛文麿 このえふみまろ• 平沼騏一郎 ひらぬまきいちろう• 阿部信行 あべのぶゆき• 米内光政 よないみつまさ• 近衛文麿 このえふみまろ• 東条英機 とうじょうひでき• 小磯國昭 こいそくにあき• 鈴木貫太郎 すずきかんたろう• 東久邇宮稔彦央 ひがしくにのみやなるひこおう• 幣原喜重郎 しではらきじゅうろう• 吉田茂 よしだしげる• 片山哲 かたやまてつ• 芦田均 あしだひとし• 吉田茂 よしだしげる• 鳩山一郎 はとやまいちろう• 石橋湛山 いしばしたんざん• 岸信介 きしのぶすけ• 池田勇人 いけだはやと• 佐藤栄作 さとうえいさく• 田中角栄 たなかかくえい• 三木武夫 みきたけお• 福田赳夫 ふくだたけお• 大平正芳 おおひらまさよし• 鈴木善幸 すずきぜんこう• 中曽根康弘 なかそねやすひろ• 竹下登 たけしたのぼる• 宇野宗佑 うのそうすけ• 海部俊樹 かいふとしき• 宮澤喜一 みやざわきいち• 細川護熙 ほそかわもりひろ• 羽田孜 はたつとむ• 村山富市 むらやまとみいち• 橋本龍太郎 はしもとりゅうたろう• 小渕恵三 おぶちけいぞう• 森喜朗 もりよしろう• 小泉純一郎 こいずみじゅんいちろう• 安倍晋三 あべしんぞう• 福田康夫 ふくだやすお• 麻生太郎 あそうたろう• 鳩山由紀夫 はとやまゆきお• 菅直人 かんなおと• 野田佳彦 のだよしひこ• 安倍晋三 あべしんぞう 【歴代内閣総理大臣の覚え方】語呂合わせ&歌を紹介! 歌詞で覚える場合には毎日寝る前に歌ってみたり、朝起きたら歌う、出かける前に歌うなど 必ず毎日口ずさむようにすることをおすすめします。 歌を覚えても、『か』ってだれだ?ということがないように、 きちんとフルネームで覚えておくようにしましょう。 例えば、どこまでが どの時代の人なのかということも大事です。 年表と照らし合わせて確認をしましょう。

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日本の歴代内閣総理大臣

歴代 総理 大臣

内閣総理大臣とは 日本国における政府の長で、日本国において行政権の属する内閣の首長たる国務大臣です。 国会によって国会議員の中から選出され、これに基づいて天皇によって任命されます。 略称は総理大臣もしくは総理。 歴代内閣総理大臣一覧 伊藤博文 初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣。 1889年には大日本帝国憲法を制定しました。 第2次伊藤内閣の時に勃発した日清戦争の際は、1年も経たずに終戦し勝利させることに成功しています。 1905年のポーツマス条約では、伊藤の動きによって締結を実現させることに繋がりました。 最期は1909年、中国のハルピンで暗殺され69歳で死去しています。 黒田清隆 第2代の内閣総理大臣。 大久保利通をトップとする[薩摩派閥]のナンバー2で、同じ薩摩藩士の西郷隆盛とは薩長同盟締結のために奔走しました。 1869年の戊辰戦争では、北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執っています。 1876年には日朝修好条規を締結し、翌年1877年の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てました。 最期は1900年8月23日、61歳の時に脳出血で死去しました。 山縣有朋 第3代の内閣総理大臣。 1838年に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれました。 足軽以下の中間身分だったが、将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励みました。 久坂玄瑞に感銘を受けたことで、松下村塾に入塾することになり、明治維新後は高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現しました。 ちなみに松下村塾の塾生は「」にまとめています。 後には副官である奇兵隊の軍監となっています。 明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになりました。 また、父親譲りの才能で、和歌、漢詩、仕舞、書を好み、茶人としても知られていて、最大の趣味は庭園造りであったと言います。 最期は1992年、85歳の生涯で人生の幕を閉じました。 松方正義 第4代の内閣総理大臣。 1881年から16年間に渡って大蔵卿・蔵相を務め、大規模な紙幣整理と軍拡のための増税を強行し、農民層の分解を促進して資本主義の基礎を作りました。 日本銀行を設立して、金本位制も確立しています。 主には財政通として財政面で業績を残しました。 最期は1924年7月2日、89歳で呼吸不全により死去しました。 大隈重信 第8代の内閣総理大臣。 1838年に佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれました。 アメリカの独立宣言によって大きな影響を受け、政治家になることを決意して、討幕を目指し脱藩しました。 その後は、尊王攘夷派として大久保利通や伊藤博文らと明治政府の基礎を作り上げます。 1882年には、国会開設に備えてイギリス流の立憲改進党を結成し、初代・党首となります。 早稲田大学の創設者であり、初代総長の大隈重信。 最期は、1922年に胆石症により83歳で死去しました。 桂太郎 第11代の内閣総理大臣。 長州藩士で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たります。 明治維新後には、横浜語学学校で学びドイツへ留学しています。 その後は、伊藤内閣や大隈内閣で陸軍大臣を務め、1901年に首相となりました。 西園寺公望と交代で首相を務め、日英同盟締結後は日露戦争、日韓併合などを主導しました。 最期は、脳血栓により67歳で死去しています。 西園寺公望 第12代の内閣総理大臣。 1849年に、山城国京都にて誕生しました。 1871年にフランス留学し、滞仏10年の後帰国し、明治法律学校を設立。 オーストリア、ドイツ、ベルギー各国の駐在公使を務め、その後は桂太郎と交互に首相を務めました。 1906年に内閣総理大臣となり、鉄道の国有化や日露協商、日仏協商、日韓協約を次々と締結していきます。 西園寺が総理大臣を務めた期間は、桂太郎と交互に総理大臣を務めていたことから、桂園時代と呼ばれています。 最期は1940年、日本の軍事力が高まる危機感の中で亡くなりました。 享年は90歳。 山本権兵衛 第16代の内閣総理大臣。 薩摩藩士を経て海軍軍人となり、第2次山縣内閣では海軍大臣として入閣。 以降、第4次伊藤内閣、第1次桂内閣でも海軍大臣を務め、大臣として日露戦争下の大日本帝国海軍を支えました。 海軍大臣のトップとして君臨し、[海軍の父]とも呼ばれていました。 また、薩摩で英雄的存在である西郷隆盛を心から尊敬し、生涯の軸となり続けたようです。 最期は1933年、前立腺肥大症のため82歳で亡くなりました。 寺内正毅 第18代の内閣総理大臣。 1852年に長州藩士である宇多田正輔の三男として生まれました。 1864年に奇兵隊の中でも武士が中心として組織された多治比隊に入隊します。 その後は三田尻で西洋銃の操作や国学を学美、1867年に倒幕軍として従軍。 戊辰戦争、箱館戦争と転戦しました。 1877年に勃発した西南戦争では、負傷により右手の自由をなくし、以降は実践の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩みました。 最期は1919年、心臓肥大症のため68歳で死去しました。 原敬 第19代の内閣総理大臣。 1856年に盛岡藩士原直治の長男として生まれました。 1876年には司法省法学校に入学し、退学後は[郵便報知新聞]、[大東日報]の記者として活躍します。 この活躍が明治政府の役人の目に止まり、外務省で働くことになり、39歳のときには陸奥宗光のフォローにより外務次官となりました。 その後は、1914年に西園寺の後任として立憲政友会の総裁となり、1918年には政友会の総裁として内閣総理大臣に就任します。 首相として鉄道や道路を中心としたインフラ整備や高等教育機関の整備、そして外交にも力を入れ、経済力の高い日本国家を目指しました。 最期は1921年、国鉄大塚駅転轍手であった中岡艮一により暗殺されました。 享年は65歳。 高橋是清 第20代の内閣総理大臣。 1854年に江戸芝中門前町で生まれました。 アメリカ留学後、文部省・農商務省に出仕し、1887年に特許局長となります。 その後は、日本銀行総裁の川田小一郎に声をかけられ、建築中であった日本銀行本館の[建築事務主任]として採用され、翌年には九州全域を管下とする[西部支店]の初代支店長に登用されました。 以降は日本銀行総裁に就任し、第1次山本、原各内閣蔵相、立憲政友会総裁を歴任し、1921年に首相となります。 最期は二・二六事件で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺されました。 享年は81歳。 加藤友三郎 第21代の内閣総理大臣。 1837年に海軍兵学寮に入学し海軍軍人として、海軍省の次官や呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官などを歴任しました。 日清戦争では巡洋艦[吉野]の砲術長を務め、日露戦争では連合艦隊参謀長として東郷平八郎を補佐しています。 その後は第2次大隈内閣、寺内内閣、原内閣、高橋内閣の海相を務め、1921年から1922年にかけてワシントン会議に首席全権委員として出席しました。 1922年に内閣総理大臣に就任しますが、翌年1923年に在職中のまま死去しました。 享年は62歳。 清浦奎吾 第23代の内閣総理大臣。 1850年に肥後国鹿本郡来民村の明照寺住職・大久保了思の五男に生まれました。 1876年には司法省に入り、保安条例制定などに尽力します。 司法官僚を経験後、貴族院議員となり、司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任し、1924年に組閣しましたが、護憲三派が激しく非難。 5ヶ月という短期間で辞職しました。 以後、新聞協会会長などを歴任し、1941年の重臣会議で東條英機の後継首相擁立を承認したのを最後に政治活動から引退。 92歳の長寿を全うし、史上最長寿の首相経験者として1942年の11月5日に死去しました。 加藤高明 第24代の内閣総理大臣。 尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として生まれました。 東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社します。 その後は大蔵省銀行局長、駐英公使などを務め、第4次伊藤内閣外相となります。 日英同盟の推進などに尽力し、東京日日新聞社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任しました。 加藤は初の東京帝国大学出身の首相で、普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結し、ソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげます。 最期は1926年の1月22日、帝国議会内で肺炎をこじらせて倒れ、そのまま6日後に66歳で亡くなりました。 若槻禮次郎 第25代の内閣総理大臣。 帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に出仕しました。 ちなみに、若槻は帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業したようです。 大蔵省に入ってからは、主税局長、次官を歴任し、法政大学の民法・租税法講師を務め、政界入り後も理事や顧問に就任しています。 1924年には加藤高明内閣の内相に就任し、普通選挙法の成立に尽力しました。 加藤高明の死後は、憲政会総裁として内閣を組閣。 最期は1949年11月20日、83歳で死去しました。 田中義一 第26代の内閣総理大臣。 萩藩士として山口県萩市で生まれました。 1892年に陸軍大学校を卒業し、日清戦争に従軍。 ロシア留学後はロシア研究に専念しました。 日露戦争では、満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務め、1906年に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成しています。 1927年には第一次若槻内閣のもとで昭和金融恐慌が起こり、若槻内閣が総辞職します。 以降は立憲政友会総裁の田中が組閣しました。 最期は1929年、狭心症となった田中は65歳で帰らぬ人となりました。 濱口雄幸 第27代の内閣総理大臣。 その風貌から[ライオン宰相]と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相です。 1895年に東京東京帝国大学法科大学卒業、大蔵省に入省しました。 1929年に内閣総理大臣に就任し、[緊縮財政]と[軍備縮小]で改革を図ります。 しかし、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は1929年には0. その後の経済政策は、第二次若槻内閣、犬養内閣と引き継がれ、GDPの成長率は劇的な回復をみせます。 最期は1931年、アクチノミコーゼのため62歳で亡くなりました。 犬養毅 第29代の内閣総理大臣。 1876年に慶應義塾に入学し、在学中に郵便報知新聞の記者として西南戦争に従軍します。 その後は東海経済新報記者を経て、立憲改進党創立に参画。 1890年には憲政の父と呼ばれた尾崎行雄に継ぐ18回連続当選で、42年間にも及ぶ議員生活が始まります。 1923年には第2次山本内閣、加藤内閣で通信大臣を務め、普通選挙法を確立させました。 1929年に立憲政友会の総裁となり、1931年には76歳で内閣総理大臣に就任します。 しかし、首相になってからわずか半年後に首相官邸内で銃弾に倒れ、命を落としました。 享年は76歳。 斎藤実 第30代の内閣総理大臣。 1879年に海軍兵学校を卒業し、山内万寿治、坂本俊篤らと共に[海軍の三秀才]と呼ばれました。 1898年に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任し、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命します。 第1次山本内閣まで8年間務めました。 五・一五事件の後は挙国一致内閣の首相となりますが、二・二六事件で暗殺されました。 享年は77歳。 岡田啓介 第31代の内閣総理大臣。 海軍大学校を卒業し、海軍省人事局長、艦政局長、艦政本部長、海軍次官を経て、1924年に海軍大将、連合艦隊司令長官となります。 1927年には田中義一内閣で海軍大臣を務めた後、斎藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して、五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めました。 ロンドン海軍軍縮会議の際には、日本国内の対立の調停役として手腕を発揮し、斎藤内閣で海相に就任します。 その後、二・二六事件で青年将校に襲われますが、九死に一生を得ることになりました。 最期は1952年、岡田は日本の主権回復を見届け、帰らぬ人となりました。 享年は85歳。 広田弘毅 第32代の内閣総理大臣。 1878年に石材店を営む広田徳平の息子として生まれました。 東京帝国大学を卒業後、高等文官試験外交科では、合格者11人のうち首席で合格して外務省に入りました。 同期には吉田茂、武者小路公共、池邊龍一、林久治郎らがいます。 外交官時代には[幣原外交]のもとで欧米局長として対ソ関係の改善に取り組み、1925年には、日ソ基本条約締結により国交回復にこぎつけました。 その後は、二・二六事件後の組閣で首相に就任しますが、1937年の1月に[割腹問答]が起こり、閣内不統一を理由に内閣総辞職を行いました。 最期は1948年12月23日、巣鴨プリズン内で締首刑を執行され死去しました。 享年は71歳。 林銑十郎 第33代の内閣総理大臣。 父は旧金沢藩士で、1903年に陸軍大学行校を卒業しました。 1905年に始まった日露戦争に従軍し、その後は陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、齋藤内閣、岡田内閣で陸軍大臣を務めています。 1937年に内閣総理大臣に就任。 政党を除外し、祭政一致を掲げた内閣であったが、議会での審議が滞り議会を解散させました。 最期は1943年、脳出血で死去しました。 享年は66歳。 近衛文麿 第34代の内閣総理大臣。 1891年に東京市麹町区で生まれました。 旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、1912年に卒業します。 その後は哲学者になろうと思い、東京帝国大学哲学科に入学するも飽き足らず、京都帝国大学法科大学に転学しました。 1937年に第一次近衛内閣を組織し、45歳で首相に就任します。 これは伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さでの就任です。 以降は新体制運動の中心として、3次に渡って首相を務めました。 最期は1945年、青酸カリを服毒して自殺しました。 享年は54歳で、この年齢での死去は日本の総理大臣経験者では最も若く、死因が自殺というのも近衛だけとなります。 平沼麒一郎 第35代の内閣総理大臣。 1867年に津山藩士だった平沼晋の次男として生まれました。 東京控訴院部長や大審院検事局検事を務めた後、司法省にて民刑局の局長などを経て次官に就任しています。 第2次山本内閣においては司法大臣として入閣を果たし、枢密院の副議長や議長を務めました。 総理大臣退任後は、第2次近衛内閣において国務大臣や内務大臣を務めています。 その後は、太平洋戦争後にA級戦犯として東京裁判で終身禁錮を宣告され、獄中で死去しました。 享年は84歳。 阿部信行 第36代の内閣総理大臣。 石川県金沢市に生まれ、陸軍士官学校に進んで陸軍砲兵将校となります。 浜口内閣では宇垣一成陸相を補佐し、宇垣が病気不在の間は陸相臨時代理に就任しました。 1939年に内閣総理大臣に就任。 同郷者が多い阿部内閣は[阿部一族]とも[石川内閣]とも呼ばれていました。 総理大臣を辞めてからは、1944年に最後の朝鮮総督に任じられています。 最期は1953年、79歳で亡くなりました。 米内光政 第37代の内閣総理大臣。 1880年に岩手県盛岡市で生まれました。 1898年に海軍兵学校29期に入校し、兵学校では[グズ政]という渾名がついていました。 第3艦隊司令長官、第2艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任し、1936年に連合艦隊司令長官となります。 その後は第一次近衛内閣と平沼内閣で留任し、1940年に内閣総理大臣に就任しました。 最期は1948年、肺炎により死去しています。 享年は68歳。 東條英機 第40代の内閣総理大臣。 1884年に東京府麹町区で生まれ、[家督を継ぐ長男]として扱われました。 1922年に陸軍大学校の教官に就任し、1923年には参謀本部員、その後は陸軍歩兵学校研究部員となります。 1940年には第二次近衛内閣の陸相となり、翌年に首相へ就任しました。 陸相と内相を兼任し、対米英開戦の最高責任者となり、太平洋戦争を推進しています。 最期は1948年、巣鴨拘置所内において東條の死刑が執行されました。 享年は64歳。 小磯國昭 第41代の内閣総理大臣。 栃木の宇都宮で、警察署警部だった小磯進むの長男として生まれました。 陸軍大学校在学中の成績は同期55人中33番であり、20番以下の成績で小磯ほど出世した者は他にはいないと言われています。 1930年には軍務局長に抜擢され、読書や耳学問で得た知識を活かし頭角を現しました。 その後は、1942年に朝鮮総督に就任し、[肉鮮一体]をスローガンに前任者の南次郎総督が行った皇民化政策をよりいっそう押し進めます。 そして、東條内閣の後を受けて組閣。 最期は1950年、巣鴨拘置所内で食道癌により死去しました。 享年は71歳。 鈴木貫太郎 第42代の内閣総理大臣。 1868年に和泉国大鳥郡伏尾新田で生まれました。 生涯に2度の暗殺未遂を経験しており、何度も死にそうな目に遭っているが、奇跡的に助かってきました。 1887年に海軍兵学校を卒業し、日清戦争に従軍しました。 1936年の二・二六事件では、安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が侍従長官邸を襲撃し、鈴木は一命を取り止めるが、侍従長を辞任します。 その後、内閣総理大臣に就任。 77歳2ヶ月で就任した鈴木の年齢は、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録です。 最期は1948年、80歳で亡くなりました。 東久邇宮稔彦王 第43代の内閣総理大臣。 久邇宮朝彦親王第九王子として1887年に誕生しました。 1906年に東久邇宮家を創設し、1914年に陸軍大学校を卒業しました。 1920年から1926年までフランスに留学し、サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで政治、外交をはじめ、幅広く修学したようです。 以降はポツダム宣言受諾後に内閣総理大臣に任命され、初の皇族首相として組閣しました。 終戦処理にあたりましたが、2ヶ月で総辞職し、その後は皇族の身分を離れました。 最期は1990年、102歳で息を引き取っています。 幣原喜重郎 第44代の内閣総理大臣。 大阪府門真一番村の豪農の家に生まれました。 1895年に東京帝国大学法科大学を卒業し、浜口雄幸とは同級生で成績の1、2位を常に争っていたということです。 外務省に入省後は、ワシントン会議において全権委員を務め、加藤高明内閣のときには外務大臣となりました。 以降は、1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させ、第二次世界大戦後の1945年に東久邇内閣の総辞職を受け、内閣総理大臣に就任しました。 最期は1951年3月10日、心筋梗塞のため78歳で死去しました。 吉田茂 第45代の内閣総理大臣。 1878年に高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台に生まれました。 戦後の日本の礎を築き、[和製チャーチル]とも呼ばれていました。 1906年に東京帝国大学を卒業し、その後は外務次官として中国やイギリスで活躍しました。 1946年に内閣総理大臣に就任し、連合国軍総司令部のマッカーサー元帥と戦後処理をして、日本国憲法をスタートさせました。 1951年にはサンフランシスコ講和会議に出席し、平和条約と日米安全保障条約を結び、日本の独立が認められるようになります。 最期は1967年、心筋梗塞によって89歳で死去しました。 片山哲 第46代の内閣総理大臣。 和歌山県田辺市に生まれ、東京帝国大学法学部独法科卒業後に[簡易法律相談所]を開設し、弁護士として活躍しました。 衆議院の首班指名総選挙では、420議員が片山に投票し、片山が内閣総理大臣となりました。 2位が吉田茂と齋藤晃の1票のみだった首班指名総選挙は、419票の差をつけ最高記録となったようです。 初の社会党首班内閣を組閣しましたが、8ヶ月で総辞職しました。 その後は民社党の最高顧問となり、1978年に90歳で死去しました。 芦田均 第47代の内閣総理大臣。 1887年に京都府天田郡中六人部村に生まれました。 1912年に東京帝国大学を卒業し、同年に外務省に入り、外交官となります。 ロシア・フランス・トルコ・ベルギー大使館などに勤務し、満州事変後に辞職しました。 1948年に芦田内閣が発足し、戦後日本の基礎となる多くの法律を成立させます。 地方財政法、地方財政法、検察審査会法、軽犯罪法、風営法など。 しかし、1948年に起きた昭和電工事件で総辞職します。 最期は1959年6月20日、衆議院議員のまま死去しました。 享年は73歳。 鳩山一郎 第52、53、54代の内閣総理大臣。 1915年に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動しました。 田中義一内閣書記官長を経て、犬養・斎藤両内閣で文相を務めています。 首相在任中は保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交を回復させました。 内閣総辞職後は、政界を引退して1959年に76歳で他界しました。 石橋湛山 第55代の内閣総理大臣。 日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三として生まれました。 戦前は[東洋経済新報]により、一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱え、戦後は[日中米ソ平和同盟]を主張して政界で活躍します。 大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、一早く[民主主義]を提唱し、1936年には鎌倉町議会委員を務めました。 1954年の第1次鳩山内閣では通商産業大臣に就任し、1955年には商工委員会委員長田中角栄のもと、戦後の財閥解体の根拠法令の一つであった過度経済力集中排除法を独占禁止法と置き換える形で廃止します。 その後は1963年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退しました。 最期は1973年の4月25日、脳梗塞により自宅で亡くなりました。 享年は90歳。 岸信介 第56代と57代の内閣総理大臣。 自由民主党総裁、外務大臣、内閣総理大臣、皇學館大学総長などを歴任し、[昭和の妖怪]と呼ばれました。 1920年に東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省します。 1941年には東條内閣に商工大臣として入閣し、翌年の第21回衆議院議員総選挙で当選しました。 こうして政治家としての一歩を踏み出し、1943年には商工経済会設置法を成立させます。 以降は、1955年に自由民主党の初代幹事長に就任し、[55年体制]が始まりました。 最期は1987年8月7日、入院先の病院で息を引き取りました。 享年は90歳。 池田勇人 第58代、59代、60代の内閣総理大臣。 広島県豊田郡吉名村にて、父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末子として生まれました。 京都帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省します。 大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった。 1945年には主税局長となり、第一次吉田内閣では事務次官に抜擢されました。 以降は高度経済成長政策や、所得倍増計画を推進しました。 最期は1965年、65歳で死去しました。 佐藤栄作 第61代、62代、63代の内閣総理大臣。 現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業を営む佐藤秀助・茂世夫妻の三男として生まれました。 1921年に東京帝国大学法学部法律学科に入学します。 学生時代の佐藤は、真面目でよく勉強する大人しい学生だったといいます。 海外留学の経験もあり、アメリカ、カナダ、メキシコ、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広いです。 1924年には鉄道省に入省し、監督局長となったりしてキャリアを積み重ね、陸上交通事業調整法の立法・運用に腐心しました。 その後は1964年に内閣総理大臣に就任し、日本史上でもまれな長期連続政権を達成しました。 最期は1975年、脳出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。 享年は74歳。 田中角栄 第64代、65代の内閣総理大臣。 新潟県刈羽郡二田村大字坂田に生まれました。 戦後最大の人気を誇る政治家と言われ、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せもったまれな存在でした。 膨大かつ明晰な知識とやるといったら徹底してやり抜く実行力から、[コンピュータ付きブルドーザー]と呼ばれていたといいます。 1972年に内閣総理大臣に任命され、54歳で当時の戦後最年少総理大臣となりました。 新潟には現在も銅像が立つほど特別な存在である角栄は、[人心掌握術]にも優れていたようです。 最期は1993年12月16日、75歳で死去しました。 三木武夫 第66代の内閣総理大臣。 1907年に徳島県阿波市で、農商人の家の長男として誕生しました。 小さい頃は、おとなしいものの我が強い性格だったようです。 また、病気がちで小学校3年時には27日間欠席したという記録もあります。 1929年に明治大学法学部に入学し、欧米への外遊に出発することになります。 米国在住経験がある長尾と共に、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどカリフォルニア州内、その後はデトロイト、シカゴ、ニューヨークなどで講演を行いました。 その後は田中内閣退陣後に新内閣を組閣し、[クリーン内閣]と呼ばれていました。 首相就任後は、公職選挙法改正案と政治資金規正法改正案、そして自民党総裁選の制度改正とともに、三木が熱意を見せたのは独占禁止法改正でありました。 最期は1988年11月14日、81歳で亡くなりました。 福田赳夫 第67代の内閣総理大臣。 群馬県群馬郡群馬町足門に父・福田善治の二男として生まれました。 東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省しました。 高等文官試験では一番の成績で合格したといいます。 大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めた福田ですが、1948年の昭電疑獄の際に収賄罪容疑で逮捕されました。 1976年に三木武夫の後任として、念願の政権を樹立しました。 内政では[景気の浮場]と[雇用の安定]、外交では[世界の中の日本]の理念に立った積極的な国際協調、党再生のためには[出直し的改革]の目標を掲げて、その達成に力強く前進を続けました。 最期は1995年7月5日、肺気腫で死去しました。 享年は90歳。 大平正芳 第68代、69代の内閣総理大臣。 香川県三豊郡和田村の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれました。 経済的に厳しい環境で育った大平は、大学進学を希望していたが断念せざるを得ませんでした。 昭和恐慌もあって就職も厳しい状態だった頃に、桃谷勘三郎の食客となり、桃谷順天館で化粧品業に携ることになります。 1935年には即決で大蔵省に採用され、翌年に入省しました。 その後は1978年に内閣総理大臣に就任し、[信頼と合意の政治]、[国民と苦楽を共にする政治]を基本姿勢に掲げて国民の協力を要請しました。 大平内閣は、政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、[角栄内閣]と呼ばれていました。 最期は1980年、心筋梗塞の心不全で急死しました。 享年は70歳。 鈴木善幸 第70代の内閣総理大臣。 岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれました。 水産学校を経て水産講習所に入学し、その後は日本水産界の総帥と言われた大日本水産会会長の伊谷似知次郎の秘書となり、全国漁業組合連合会、岩手県漁業組合連合会に勤務したのち、中央水産業会企画部次長を務めました。 以降は衆参両院議員総会で、西村副総裁の指名を受けて新しく鈴木内閣が誕生しました。 党内の融和と結束を最重視して、[和の政治]を政治運営の基本姿勢に掲げました。 1980年には、国防会議とは別の組織として内閣に総合安全保障関係閣僚会議を設置しました。 最期は2004年7月19日、肺炎のため93歳で死去しました。 中曽根康弘 第71代、72代、73代の内閣総理大臣。 1918年に群馬県高崎市で生まれました。 地元の小中学校を卒業し、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進みました。 大学卒業後は内務省に入省し、同期には早川崇や小沢辰男、大村襄治らがいました。 1947年に新憲法下で初めて行われた総選挙で、衆院議員に初当選しました。 その後は、1982年に鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任。 行政改革の推進と[戦後政治の総決算]を掲げ、1987年まで一国の総理の座にあり、日本歴代第7位の長期政権となったようです。 2018年の5月に、日本の総理大臣経験者では史上2人目の100歳の誕生日を迎えています。 竹下登 第74代の内閣総理大臣。 島根県飯石郡掛合村に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれました。 早稲田大学卒業後は東京で新聞記者になるつもりだったが、帰郷して掛合中学校の代用教員となります。 その後は1987年の11月に内閣総理大臣となり、[ふるさと創生]を掲げ、税制改革を推進しました。 1989年には消費税導入を果たしますが、リクルート事件で辞任しました。 最期は2000年6月19日、呼吸不全のため76歳で命を落としました。 宇野宗佑 第75代の内閣総理大臣。 1922年8月27日、滋賀県野洲郡守山町に宇野長司と民子の長男として生まれました。 1935年に滋賀県立八幡商業学校に入学し、高校2年時には全国高商剣道大会で初の全国優勝に導きました。 その後は県議会委員や、議員秘書などを経て1989年に宇野内閣が発足しました。 宇野は自民党三十数年の長期政権の中でも最も困難な時期に誕生した総裁でした。 [政府はスリムに、国民は豊かに]という基本的考え方をもとに政治活動を進め、[政治改革推進本部]を設置して、政治倫理、国会改革、党改革、選挙制度、政治資金、企画等の委員会を発足させました。 最期は1998年、75歳で死去しました。 海部俊樹 第76代、77代の内閣総理大臣。 1931年に名古屋市で写真館を経営する家の6人兄弟の長男として生まれました。 中央大学法学部に進んだ後、早稲田大学第二法学部法律学科に編入学しました。 早大在学時は早稲田大学雄弁会に所属し、1956年には早稲田大学大学院法学研究科修士課程中退して、学生時代から務めた河野金昇の秘書に専念しています。 1960年11月20日の衆議院議員総選挙で、全国最年少で当選。 1965年には青年海外協力隊の創設に力を注ぎ、生みの親とも言われています。 内閣総理大臣に就任してからは、[対話と改革の政治]を旗印として[公正で心豊かな社会]を目指すと、政治姿勢を明らかにしました。 政界引退後は、日本ソフトテニス連盟会長、日本ティーボール協会会長などを務め、中央政策研究所では最高顧問を務めています。 宮澤喜一 第78代の内閣総理大臣。 宮澤裕・こと夫妻の長男として東京に生まれました。 東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、在学中の1939年に日米学生会議に参加のため渡米しました。 1942年に大蔵省に入省し、1945年には大平正芳と共に津島壽一蔵相秘書官となります。 そして、1991年に72歳にして内閣総理大臣に就任し、官僚出身の最後の総理となりました。 就任後は、[品格ある国・生活大国]の建設を大きな政策目標に掲げ、政治活動を進めていきました。 最期は2007年6月28日、87歳で帰らぬ人となりました。 細川護熙 第79代の内閣総理大臣。 東京府東京市に生まれました。 上智大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社し、金嬉老事件などを取材しました。 その後は大蔵政務次官などを歴任し、日本新党、日本社会党、新生党ら8党からなる連立政権を誕生させ内閣総理大臣に任命されました。 1994年には、冷戦終結後の日本における安全保障のあり方の見直しを提起し、防衛問題懇親会を設置しました。 首相退陣後は、[フロム・ファイブ]を設立し、新体制の民主党結成に関わった後、衆議院議員を辞職しました。 以降は陶芸を中心に茶、書、水墨などにいそしみ、2001年以降は国内外で個展を開いています。 羽田孜 第80代の内閣総理大臣。 東京府東京市蒲田区にて羽田武嗣郎・とし子夫妻の長男として生まれました。 1958年に成城大学を卒業し、父と同じジャーナリズムの仕事に憧れ、朝日新聞社・日本経済新聞社などを受験しましたが失敗します。 その後は1991年に宮沢内閣で大蔵大臣に就任し、入閣しています。 民政党が結成されてからは代表となり、さらには民主党、民政党、新党友愛、民改連が統合し、新・民主党が結成され、初代幹事長に就任しました。 政界引退後は、桐花大綬章を受章し最期は2017年8月28日、老衰のため82歳で死去しました。 村山富市 第81代の内閣総理大臣。 1924年、大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれました。 1944年に明治大学専門部卒業と同時に日本社会党に入党します。 その後は国会対策委員長などを歴任し、1993年9月に第 13代の日本社会党委員長に就任しました。 羽田内閣総辞職の後に首相に就任し、片山哲内閣以来47年ぶりの日本社会党の総理大臣となったのです。 首相退任後は党務に専念し、政界引退後は桐花大綬章を受章しました。 2015年の時点では、大分と東京を往復し政治活動を行なっています。 橋本龍太郎 第82代、83代の内閣総理大臣。 東京市渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれました。 1956年に慶應義塾大学に入学し、幼少期から趣味で始めた剣道に力を入れ、[突貴剣士]というニックネームをつけられていた。 制服を好み、学生時代は常に詰襟学生服か剣道着で生活していたといいます。 1978年に、第1次大平内閣で厚生大臣に任命され、当選5回で初入閣を果たます。 1993年の総選挙では、自民党政治家で高い人気を誇った河野洋平、石原慎太郎と共に[三本の矢]と呼ばれ全国遊説で奮闘しました。 そして、1996年に村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足しました。 首相退任後は、当時の小渕恵三首相から首相外交最高顧問を任じられ受けており、2001年には沖縄及び北方対策担当大臣に就任しています。 最期は2006年7月1日、多臓器不全のため68歳で死去しました。 小渕恵三 第84代の内閣総理大臣。 1937年、群馬県吾妻郡中之条町に製糸業を営む小渕光平・小渕ちよ夫妻の次男として生まれました。 早稲田大学第一文学部英文学科に進学し、政治家になるためのスキル獲得のためサークル活動に積極的に取り組みました。 詩吟サークルの稲吟会、書道会、観光学会など数多くのサークルに所属しています。 1963年の11月には、早稲田大学大学院に在学中、第30回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬し、26歳という若さで当選しました。 その後は、新元号の発表で平成を公表したことにより、[平成おじさん]として広く知られるようになりました。 そして1998年、橋本の後継首相となり低支持率からの政権活動がスタートしました。 しかし、1937年6月25日、総理大臣在職中に脳梗塞で倒れたまま意識が回復せず、そのまま62歳で亡くなりました。 在職中に急逝したのは、大平正芳以来20年ぶりのことでした。 森喜朗 第85代、86代の内閣総理大臣。 石川県能美郡根上町に根上町長を務めた森茂喜と、妻の薫との間に長男として生まれました。 小中時代は、いじめの常連で何度も職員室に引っ張られたと講演で回顧しています。 子供の頃からラグビーに強い関心を示すようになり、早稲田大学に入学後はラグビー部に入部しました。 スポーツ推薦で入学したものの、過酷な練習に参ってしまいラグビー部を退部。 その後は雄弁会に入会し、政治家を志すようになります。 1960年に早稲田を卒業し、産業経済新聞社にコネ入社しました。 そして、2000年4月5日、脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三の跡を継ぐ形で、内閣総理大臣に就任しました。 [日本新生]をキャッチフレーズに、内閣を組閣していきました。 しかし、首相としての評価は低く政治記者・評論家・学者52人実名アンケートによると [戦後歴代最低の総理大臣]に森の名を挙げ、[総理に推したのは大間違いだった]と辛口の意見が多いようです。 小泉純一郎 第87代、88代、89代の内閣総理大臣。 1942年1月8日、神奈川県横須賀市に父小泉純也と母芳江の長男として生まれる。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、英国ロンドン大学群ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(U. )に留学しました。 1979年に第2次大平内閣で大蔵政務次官に就任し、1988年には竹下改造内閣で厚生大臣として初入閣しました。 そして、小泉内閣発足時の2001年4月、内閣支持率は戦後の内閣として歴代1位の数字となり、[小泉内閣メールマガジン]を発行すると登録者が200万人にも及んだことが話題となりました。 2002年9月には、日本の首相として初めて北朝鮮を訪問し、北朝鮮に拉致された5人の帰国を実現しました。 経済再生に向けては、[構造改革]を掲げ、約5年5ヶ月に渡って首相を務め、2006年に退任しました。 福田康夫 第91代の内閣総理大臣。 東京府東京市生まれで、早稲田大学卒業後に大阪に本社を置く丸善石油に入社しました。 17年余りサラリーマン生活を送っていましたが、40歳で退社し、政界入りしました。 外務政務次官、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていきました。 その後は、第1次小泉内閣において引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任し、2007年9月23日の自民党総裁選において330票を獲得。 内閣総理大臣に就任しました。 その後は2008年9月24日に内閣総辞職し、退任後はインター・アクション・カウンシルのメンバーに就任しています。 麻生太郎 第92代の内閣総理大臣。 福岡県飯塚市で生まれ、学習院大学政治経済学部にて政治学士を取得しました。 1979年に衆議院選挙に初当選し、政界入りしました。 1996年には第2次橋本内閣の経済企画庁長官に就任し、2001年には額賀福志郎の後任で、経済財政政策担当大臣に就任しました。 そして、2008年9月24日に内閣総理大臣に就任します。 就任後の主な経済政策では、定額給付金の支給や住宅ローンの減税、雇用保険料の引き下げなどを実施しました。 最終的には2009年8月の衆議院選挙で自民党が惨敗し、野党に転落して総裁・首相職を辞めました。 鳩山由紀夫 第93代の内閣総理大臣。 東京都小石川区に大蔵官僚だった父・鳩山威一郎、母・安子の長男として生まれました。 1969年に東京大学工学部計数工学科を卒業後、スタンフォード大学の博士課程でオペレーションズ・リサーチを専攻し、Ph. を取得しました。 その後は1998年に民政党など3党が合流して、新たな民主党を結成して菅直人と共同代表になります。 そして、2009年9月16日、衆参両院の内閣総理大臣指名選挙で国民新党・社会民主党を連立与党として内閣総理大臣に就任。 政権は高支持率でスタートし、2009年の流行語大賞では[政権交代]が大賞に選ばれました。 首相就任後は、2009年末に政府の緊急雇用対策の一環として[公設派遣村]を設置しています。 しかし、2010年6月、沖縄県のアメリカ軍普天間飛行場移設問題で社会民主党の連立政権離脱を招いて窮地に立たされ,党代表・首相職を辞めました。 菅直人 第94代の内閣総理大臣。 1946年10月10日、岡山県出身の父・菅寿雄の勤務先、山口県宇部市に長男として生まれました。 東京工業大学理学部に入学し、在学中は学生運動にのめり込みました。 その後は弁理士を目指し、1971年に弁理士試験に合格します。 1974年には独立して、[菅特許事務所]を開設しました。 政界入りしてからは第40回衆議院議員総選挙で当選し、1993年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に就任しました。 そして、2010年6月に鳩山首相の退陣により、61人目の首相に就任しました。 退任後は鳩山由紀夫とともに民主党最高顧問に就任し、自身の支持グループである国のかたち研究会の会長に復帰しています。 野田佳彦 第95代の内閣総理大臣。 千葉県船橋市で生まれ、船橋の小中高の学校に進学後、早稲田大学政治経済学部政治経済学科に入学しました。 在学中は新自由クラブでボランティア活動をし、1977年の参院選でビラ配りをした経験もあります。 早稲田大学卒業後は、松下幸之助が設立したばかりの松下政経塾に第1期生として入塾しました。 松下政経塾では学童保育の研究などを行い、1985年に卒業しました。 その後は1987年の千葉県議会議員選挙に立候補して初当選し、1993年には細川連立政権を支えました。 そして、2011年8月30日、衆参両院で行われた首班指名選挙において、内閣総理大臣に任命されました。 松下政経塾出身の初めての総理大臣であり、1955年以後、自民党在籍歴をもたない総理大臣が2代続いた唯一の例となっています。 政権公約にない消費税率の引き上げ,環太平洋経済連携協定 TPPを推進して党内対立を深めました。 総辞職したのは2012年12月の総選挙で、自由民主党に壊滅的敗北を喫しました。 安倍晋三 第90代、96代、97代、98代の内閣総理大臣。 1954年9月21日に毎日新聞の記者であった夫・安倍晋太郎と、その妻・洋子の次男として東京都で生まれました。 成蹊大学法学部政治学科を卒業後、1979年に神戸製鋼所に入社します。 3年間勤務した後、1982年に父・晋太郎の秘書官を務めることで政界入りしました。 1993年に父の死去に伴い、衆議院議員総選挙に出馬し初当選します。 以降は第90代の内閣総理大臣に就任し、中国や大韓民国との関係改善に取り組み,法整備や制度改革を進めました。 そして、2012年の12月に行われた総選挙で自民党が民主党を制して圧勝し、3年3ヶ月ぶりに政権へ復帰を果たしたのです。 まとめ 総勢62人に渡って日本の内閣総理大臣を紹介しました。 それぞれ首相によって、就任時の年齢も異なり短期で終わる首相もいれば、長期に渡って政権を担う首相もいます。 政権交代によって政治体制は大きく変わってくるが、今の安倍政権は戦後日本政治史の中でも顕著な強靭性を発揮してきました。 平成が今年で終わり、来年は元号が変わります。 この目まぐるしく早いスピードで変化していく日本の経済情勢はどう変わっていくのか。 今後の政治活動も注目していきたいですね。

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総理大臣出身大学ランキング

歴代 総理 大臣

内閣職権、大日本帝国憲法及び内閣官制に基づく内閣 [ ] (明治18年)12月22日に成立した初代内閣のは、 及び(明治18年12月22日太政大臣公爵三条実美達)を設置根拠とした。 (明治22年)にが公布された後 、同年に(明治22年勅令第135号)が施行され、第3代内閣のが成立した(なお、 大日本帝国憲法には、の規定はあるものの、 内閣及び内閣総理大臣に関する規定はない。 以後、(昭和22年)に及びが施行され、内閣官制の廃止等に関する政令(昭和22年政令第4号)が公布・施行されるまで、内閣の設置は内閣官制を根拠とした。 内閣総理大臣及び国務大臣の選定過程、内閣の成立過程については、憲法その他の法令に詳細な規定は存在せず、慣習・慣例やその時々の有力者の思考等によって行われた。 そのため、時により例外はあるものの、概ね以下の過程をたどって、内閣は成立した。 は、などの推薦(奏薦)を受けて、次期内閣総理大臣の候補者に対し、国務各大臣の候補者を揃えて、内閣を組織すること()を命じる(これを「」と呼んだ)。 次期内閣総理大臣の候補者が、国務各大臣の候補者を揃えて天皇に推薦(奏薦)する。 天皇は元老、重臣会議などに意見を聞いて、内閣総理大臣及び国務大臣を任命する()。 () 44 1945年(昭和20年)10月 09日 (昭和21年) 05月22日 ・ 45 1946年(昭和21年) 05月22日 (昭和22年) 05月24日 日本自由党・日本進歩党 連合国軍占領下 日本国憲法及び内閣法に基づく内閣 [ ] (昭和22年)にが施行され、以後、の設置は同以下を根拠としている。 なお、第45代・はに基づいて成立したものの、同により、同憲法に基づいて成立したものとみなされた。 日本国憲法の施行に合わせて、内閣官制の後継法令となる(昭和22年法律第5号)が施行された。 日本国憲法に定められた内閣の成立過程は、以下の通りである。 は、の中からの議決によって指名され(1項)、に任命される(同1項)。 内閣総理大臣は内閣を組織するを任命し(同1項)、天皇はその任命を認証する(同5号)。 脚注 [ ]• 法令全書に記載された法令名は「太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廃シ内閣総理大臣及各省諸大臣ヲ置キ内閣ヲ組織ス」である。 大日本帝国憲法が施行されたのは、第1回が開会された(明治23年)である。 なお、この時点で国務各大臣の候補者を揃えられない場合、、などと呼ばれる。 黒田内閣総辞職に際し、は黒田の辞表のみを受理。 他の閣僚は留任させ、三條實美に内閣総理大臣を兼任させた。 明治天皇が改めて山縣有朋に組閣の大命を下したのは2ヶ月も経ってからだったため、この間は一つの内閣が存在したものとして、かつては「三條暫定内閣」と呼んでいた。 ただし、今日では慣例としてこれを歴代の内閣には数えていない。 1924年(大正13年) 06月11日に成立した加藤高明の内閣は、連立が崩壊したため、一旦総辞職。 加藤はあらためて組閣の大命を受け、1925年(大正14年) 08月 02日憲政会単独の内閣を組織した。 かつてはこの 08月 02日以降の内閣を「第2次加藤高明内閣」と呼んでいたが、現在では両内閣を一貫して「加藤高明内閣」と呼ぶことが慣例化している。 国会から指名を受けた内閣総理大臣就任予定者は(首相官邸)に入り、国務大臣候補者を呼び込む組閣作業を始める。 首相就任予定者は組閣作業を終えた後、国務大臣候補者とともにへ参内し、天皇に国務大臣人事のを行う。 内奏の後、従前の内閣総理大臣が侍立(天皇の脇に付き添って立つこと)して内閣総理大臣任命式()が行われる()。 これにより従前の内閣()はその地位を失い、内閣総理大臣以下国務大臣は一斉に退官する。 これに引き続き、新・内閣総理大臣が侍立して国務大臣任命式()を行う。

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