天王寺の戦い なんj。 和宗総本山 四天王寺

話題沸騰!真田幸村の軌跡を辿る旅~大阪城~天王寺編~|じゃらんニュース

天王寺の戦い なんj

石山合戦 「石山戦争図」(蔵)。 大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの(北が左)。 戦争:石山本願寺の一揆鎮圧戦 年月日: - 場所:石山() 結果:石山本願寺と織田信長との講和 交戦勢力 織田水軍 指導者・指揮官 戦力 ()約15,000 ()約700隻 ()600隻 (天王寺)約10,000 (木津川口1)約306隻 (木津川口2)6隻 損害 (天王寺)2700 (木津川口1)不明 (木津川口2)不明 (天王寺)不明 (木津川口1)壊滅 (木津川口2)不明• 概要 [ ] 広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの10年間を指すが、天正8年(1580年)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。 最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に各地のはその勢いを著しく失った。 また、に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。 「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の(系)と混交するためである。 また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある。 以下の文中においては単に本願寺と記す。 また、「石山本願寺」という呼称についても、近年「石山本願寺」の名称が登場したのは以降で、石山合戦当時には「大坂本願寺」と呼ばれていたとする説 があり、これを支持する研究者の間では「石山戦争」「石山合戦」の呼称は当時の史実と合致しないとして「大坂本願寺戦争」などの名称を用いる者がいる。 発端 [ ] 大坂石山本願寺は、元は本願寺第8世法主が隠居先として選んだ場所であり、大坂御坊(石山御坊)と呼ばれた。 畿内では本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れたは徒のらと結託し、元年()8月にを焼き討ちした(、)。 これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。 本願寺は当時、に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。 また、山科焼失の前年にと呼ばれる本願寺一門内の内戦を加賀で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。 そこで10世法主は京都に近く、交通の便の良い大坂御坊を本願寺の本拠とし、石山本願寺と改称した。 こうして、石山本願寺は本願寺の本拠として発展した。 細川晴元は石山の発展も恐れ、たびたび石山を攻撃したが、石山は小高い山や川が多く守りに適した土地であり、山科を教訓として本願寺が軍備を進めていたために、まったく戦果を挙げられなかった。 晴元以外の時の権力者も石山の武力を恐れ、同盟を結ぶなどして本願寺との戦火を避けた結果、本願寺の権力は年々増大し、11世法主の顕如が(門跡は皇族・貴族が僧籍に入り住職となる際の呼称)になるなど、中央権力との結びつきが強くなった。 そんな中、11年()に織田信長がを擁して上洛に成功した。 足利義昭は13代の弟であり、義昭が信長の武力と共に京都に入ったことで、将軍の地位は第14代から義昭に渡ることが確実になった。 信長は上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。 信長は将軍家の名目で教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこなった。 本願寺には「再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し、顕如はこれを支払った。 永禄12年()半ばから、信長と義昭との仲はだんだんと険悪になって行った。 この年の9月、信長は征伐を決行する。 当時、義昭によって京都を追われ、石山本願寺を頼っていたは、顕如に三好氏支援を進言した。 ただし、前久は朝廷内・幕府内での対立関係からくる義昭の排除が目的であり、織田氏と直接の利害関係はなかったようである。 その証拠に信長が義昭を追放した後、近衛は京都に帰還し、一転して信長派の中心人物となっている。 合戦の流れ [ ] 淀川堤の戦い [ ] 元亀元年(1570年)9月12日に顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし、攻略のために福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。 そのまま本願寺軍は石山を出て、14日にで信長軍と直接激突した。 この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り籠城の構えを見せた。 織田軍はで既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍を置くと、に働きかけて本願寺軍に矛を収めるようを出すなど、本願寺との戦闘を避けた。 そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わったのである。 この時の戦いの様子については「」を参照 石山挙兵とほぼ同時にで一向一揆が発生()し、尾張のを落として守っていた信長の弟を自害に追い込むなど、公然と信長に敵対するようになった。 元亀2年()5月に信長は長島殲滅を図るが失敗し、多数の兵を失った。 この年の一向一揆に対する戦果は、9月に一向一揆の篭る・を降伏させたに留まる。 また、元亀3年()に信長が京都に自身の屋敷を建てた際には、3月に顕如から万里江山の一軸と白天目の茶碗を贈呈されている。 7月には家臣に一向宗禁令を出すなど緊迫したが、これはの仲介という形で和議を結んでいる(信玄の妻と顕如の妻は姉妹である)。 11月にはを贈られたことに対しての謝礼をしている。 但し、兵力を出して戦火を交えてはいないものの、いわゆるは非常に盛んであった。 顕如は遅くとも元亀3年末ごろまでには武田信玄やなどと密かに同盟を結んでおり、信長を東西から挟撃しようと画策している。 足利義昭もこの流れに乗って信玄に上洛を促すなどしている。 当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交やへの友好工作などを行っている。 したがって天正元年末までは、石山本願寺と信長は互いに牽制しつつも戦火を交えない、いわばよりややましな程度で推移していたと思われる。 長島・越前一揆殲滅 [ ] 天正元年、信長はとを相次いで滅ぼし、義景の領国であったには義景の元家臣をに任じて統治させた。 しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年の1月にら領主と結んだ一向一揆によって殺された。 さらに一向一揆と結んだ国人領主も次々と一揆により織田方の役人を排斥し、越前はと同じく一向一揆のもちたる国となった()。 これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった。 これを知った顕如は、はじめを派遣し、その後を越前に任じた。 こうして本願寺と信長の和議は決裂し、4月2日に石山本願寺は織田家に対し再挙兵した。 本願寺は長島・越前・石山の3拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があった。 信長はそれを最大限に活用して各個撃破にでた。 7月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。 長島・屋長島・中江の3個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、9月29日には降伏開城した。 しかし、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処した。 この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の2個所は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。 指導者であった願証寺の(佐堯)は自害した。 この時の戦いの様子については「」を参照 天正3年()には、信長は本願寺と結託した主を降伏させ、・のをで破り、兵を十分に休めた後で動員令を発し、8月12日に越前に向けて進発した。 一方越前では、下間頼照ら本願寺から派遣された坊官らが重税を課した事などにより、越前で一揆をおこした民衆との関係は悪化し、坊官の専横に反発し一揆が起こるという一揆内一揆まで起きた。 こうした一向宗内部の混乱に乗じ織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前を制圧し、さらに加賀の南部まで攻め込んだ。 9月には信長は北の庄に戻り、さらに岐阜へと戻って石山を牽制した。 本願寺3拠点の2つが撃破され、特に長島では徹底的な根切を行ったことを知った石山本願寺は、顕如が信長に対して自らの行為を侘び、さらにと誓紙を納めることで信長と再度和議を結んだ。 しかし、前回の和議とは異なり、信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利な状態での和議となった(実際には信長はまだ上杉・武田・毛利に挟まれており、信長にとっても和議は軍事上悪い話ではなかった)。 一方で中国地方ではこの年に毛利氏は織田方へと寝返ったのをで滅ぼし、とでもと同盟してを後援し・を失領させ、大きく東へと勢力圏を拡大した。 これによって毛利氏の軍勢は陸路でまで侵攻する事が可能になり、海路でも瀬戸内海の制海権を確保して対織田を視野に入れたの本願寺との連携が模索され始める。 天王寺合戦、第一次木津川口海戦 [ ] 江戸時代中期に作成されたと考えられる第三次石山合戦の配陣図(北が左)。 天正4年()春、顕如はに庇護されていた将軍足利義昭と与して三たび挙兵した。 信長は4月14日、らに命じて石山本願寺を三方から包囲した。 しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市)や木津(同)から海上を経由して弾薬・兵糧を補給しており、織田軍が木津を攻めると、本願寺軍は逆に1万を超える軍勢をもって木津の織田軍を蹴散らし、天王寺砦付近まで攻め入った(この時に包囲軍の主将であったが戦死している)。 危機に陥った光秀は砦に立て篭もり、信長に救援を要請した。 この敗報を聞いた信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発したが、突然のことであるために兵の集結が遅かった。 そのため信長は痺れを切らし、3000ばかりの兵を連れて天王寺を包囲している15000余の本願寺軍に攻めかかった。 また、包囲を突破して砦に入ると、すぐさま光秀はじめとする砦内の兵等と合流して討って出た。 そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し、石山本願寺に退却した()。 その後、信長は石山本願寺の四方に付城を住吉の浜手に要害を設け、塙直政の後任の司令官にを任命して本願寺を完全包囲下に置いた。 経済的に封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請した。 輝元は要請に応じ、7月15日になどの船700から800艘(実際は600艘程度と言われる)が兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れた。 織田軍はすぐさま、配下のなど300余艘で河口を封じたが、毛利水軍は数の利を生かしてで織田軍の船を焼き払い、大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けた()。 信長は仕方なく、三方の監視のみを強化して一旦兵を引いた。 紀州征伐 [ ] 翌5年()2月2日、紀伊のの中でも本願寺へ非協力的 であった雑賀三緘衆 との杉の坊が信長軍へ内応した。 これを受けて、信長は準備を整えた上で2月13日に京都を出て、対抗する雑賀勢の篭る・に攻め入った()。 織田信長の軍は貝塚にいた雑賀衆を攻撃したのち佐野に進み、自軍をで山手・浜手の二手に分け、紀伊に攻め入った。 3月1日に雑賀衆の頭目の1人で有力な門徒でもあるの居城を包囲し攻め立てた。 しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、戦線も膠着状態に陥ったことから、事態を憂慮した雑賀衆が翌日に大坂での事に配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、信長はこれを受け入れて兵を引いた。 第二次木津川口海戦 [ ] 木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長であるに、を装備した黒船を建造するよう命じ、滝川一益にも白船を一艘建造させた。 九鬼嘉隆らの船団は伊勢大湊を出発し、大坂へ向かった。 雑賀衆はこれを迎え討つべく、(現大阪府)周辺の海上でこの船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した。 しかし、嘉隆はこれに応戦し、も使って敵船の多くを撃沈し、船団は7月17日にに着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖した。 11月6日、毛利水軍は600余艘を繰り出して再び木津川河口に現れた。 信長軍は九鬼嘉隆の大船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも焙烙火矢で攻撃を繰り返した。 しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に、大船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法で相手を打ち崩し、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖に追い返すことに成功した()。 講和 [ ] 天正6年10月、摂津における石山本願寺討伐の要であったの離反によって()、信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。 同時に、でがを攻めていたが、毛利氏が摂津に上陸して三木城に兵糧を運び込む恐れも出てきた。 これを機に信長は朝廷を動かして、本願寺と毛利氏との和解を試みた。 11月4日、朝廷は信長の希望を受け入れて、が本願寺の顕如と毛利輝元に対し、信長と講和するよう勅命を下した。 朝廷から本願寺に勅使が派遣されたが、顕如は毛利氏の賛同がないと応じられないとして勅命を拒否したため、交渉は決裂した。 これを受けて、信長は毛利氏への勅使も派遣を検討した。 しかし、その直後、織田水軍が第二次木津川口海戦において毛利水軍に大勝し、11月24日に茨木城が開城すると、信長は急遽朝廷へと使者を飛ばし、毛利氏への勅使派遣を中止させ、和平交渉を取りやめた。 その後、信長は村重攻略を進め、また村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、反乱自体は長期にわたったものの、石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。 第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて、本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めた他、天正7年()10月にはが陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあり、12月、ついに恒久的な和議を検討するようになり、密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えた。 その動きを期待していた信長側でも再度、朝廷に講和の仲介を働きかけていた。 そして、翌天正8年(1580年)1月、三木城が落城した。 そのような状況の中で3月1日、朝廷は本願寺へと を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。 また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。 以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。 閏3月7日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は3度目の講和を果たした。 条件は顕如ら門徒の大坂退城など以下の通り。 覚 一 惣赦免事 一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事 一 人質為気仕可遣之事 一 往還末寺如先々事 一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事 一 月切者七月盆前可究事 一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事 三月十七日 朱印(信長) (「本願寺史」本願寺史料研究所編纂 浄土真宗本願寺派<西本願寺>発行) この他『信長公記』には退城の期限は7月20日だったと書かれている。 また、講和条約に署名したのは顕如の3人の側近・下間頼龍・だった。 4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡のに渡し、紀伊に退去した。 しかし雑賀やの門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。 故に、顕如が石山を去った後も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠し続けた。 7月2日、顕如は3人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。 これと前後して荒木村重がに破れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって石山の受け渡しを教如派も受け入れて雑賀に退去し、8月2日に石山は信長のものとなった。 が、引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。 『信長公記』では松明の火が風で燃え移ったとされている。 『多門院日記』には、「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂されたとある。 8月、佐久間信盛は信長から折檻状を突きつけられて織田家から追放されたが、理由の1つに石山本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げている。 また信長と石山本願寺の交渉の影には(森蘭丸)の母のがいた。 妙向尼は和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った。 森成利を通じて情報を得た妙向尼は信長と直接、面会し、直談判をして信長の石山本願寺の追撃を断念させた。 信長は当時、本願寺との和睦に際して「下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した。 戦後の影響 [ ] 顕如退去後に教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の2派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。 結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつき、天正10年()6月のの信長の死の直後に顕如と教如は朝廷の仲介により和解するが、顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し3男のを嫡子と定めた。 元年()11月、顕如が死没すると豊臣秀吉の命で教如が本願寺を継ぐが、(顕如の妻、教如・准如らの母)らが顕如の遺志にもとづき秀吉に働きかけたため、翌年に教如は隠居させられ弟の准如が跡を継いだ。 しかしその後も教如は大坂の大谷本願寺(難波御堂、現在の)を本拠地として、各地の門徒へ本尊の下付などの法主としての活動を続けたため、この時点で本願寺は准如を支持する派と教如を支持する派に事実上分裂した。 7年()、教如は以前より昵懇だったによる土地の寄進を受け、京都の七条烏丸にを建てたために、本願寺は東西に分かれることとなった。 序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。 講和条件の「如在無きに於いては(=従順でいるならば)加賀江沼・能美2郡を本願寺に返付する」という条項については、実現されることはなかった。 というのは教如が抗戦を呼びかけたため、加賀一向一揆と信長の重臣の交戦は続いたからである。 信長と顕如は停戦を命じたものの戦闘は続き、天正8年11月17日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、天正10年(1582年)3月には白山麓の一揆が鎮圧されて「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えた。 ちなみに全国各地の真宗寺院の記録には、誇らしげな武勇談・忠節談はあっても、不法行為をしてしまったという罪の意識や反省の弁は皆無であり、門徒たちの「正義の戦いであった」という意識が明確に投影されている(岩波書店「日本通史 中世4」より)。 注釈 [ ]• ・のように浄土真宗の中でも反本願寺勢力諸派は本願寺勢力に呼応しなかった。 また、本願寺勢力傘下でものように信長側による安全の保証を条件に中立もしくは信長方についた者もあった。 雑賀には浄土真宗の鷺森御坊の他にの本山であるがあるため浄土宗信者も多く、石山合戦の対応についても真宗門徒や信長に反発する非門徒の国人が多く本願寺支援に積極的な「雑賀荘」「十ヶ郷」と消極的な「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」に分かれていた。 庭田重保は蓮如の母方の叔父であると同時に門跡寺院としての本願寺との取次を長く務め、勧修寺晴豊本人は本願寺とのつながりはないが実弟のが継いだが能登畠山家を介して本願寺と婚姻関係を持っており、晴豊も充房の後見人として万里小路家が持つパイプを活用できる立場にあったとみられている(太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) )。 出典 [ ] []• 吉井克信「戦国・中近世移行期における大坂本願寺の呼称-『石山』表現をめぐって-」(『寺内町の研究 三』法蔵館、1998年、初出は1996年)• 川端泰幸「大坂本願寺戦争をめぐる一揆と地域社会」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)• 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」(大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) P317-322• , p. 261. 194. , p. 197. 『森蘭丸の母とその流れ~妙願寺史に沿って』 参考文献 [ ]• 編『』巻三から巻十三• 武田鏡村『織田信長 石山本願寺 合戦全史』ベスト新書 2002年• 『戦国合戦事典』PHP文庫 1996年• 森嵩正『森蘭丸の母とその流れ~妙願寺史に沿って』近代文芸社 1996年• 『信長の天下布武への道』〈戦争の日本史13〉、2006年12月、93-97頁。 『足利義昭』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、新装版。 関連項目 [ ]•

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目次 Contents• の築城 大阪城は亡き が天下統一の拠点として、 の跡地に難攻不落の巨城を築いた豪華絢爛な「三國無双」の城で、1583年に築城総奉行は が担当して、縄張り 設計 した輪郭式平城。 本丸の造営には1年6ヶ月、大阪城全体に至っては、豊臣秀吉が存命した全期間 15年 掛けて常に工事・築城されたと言う。 設計的には、1590年の の際、周囲全長9kmにも及ぶ の総構え そうがまえ を前に、城攻めの強攻ができなかったと言う経験から、築城の名手とうたわれた北条家・小田原城の総構と障子堀を大阪城にも採用した。 その為、大阪城は小田原城の総構えに匹敵する周囲の長さ8kmの規模となる堅城に至っていた。 当時の小田原城の総構えは東京ドーム74倍の大きさを誇っており、この大阪城や小田原城の大きさ 周囲9km が意味する意図は簡単だ。 それは「 大砲の飛距離」に関係する。 の大筒で一番良く飛んだものが約600m程度、徳川家がイギリスから購入し大阪夏の陣にて使用したセーカー砲でも最大射程は1000m程度だと推定される。 周囲が9kmある だと、その外周から中心部までの距離は単純計算して約2800m。 すなわち、当時最大の武器とも言える「大砲」から、城の中心部を守るために、堀を何重にも巡らした総構えは、防衛上大変有効であったのだ。 なお、敵が侵入しにくい城の構えと言う者は、逆に例えると味方が逃げにくい。 すなわち、籠城する際の「構え」としては、防御と言うよりは、味方の兵が恐れをなしたり、空腹に耐えかねて逃亡するのを防止すると言う意味合いの方が大きい。 さて、大阪城に入った真田幸村・ ・ らは城から討って出て積極的に野戦を行い、徳川勢を足止めしている間に諸大名を味方につける策を主張した。 しかし、この鉄壁な大阪城の守りに自信がある淀殿や らは籠城策を採る。 その為、籠城の準備に入ったが、築城の名手と言えば、真田家も同様であり真田幸村は大阪城防御の弱点は南方だと見抜いていた。 真田幸村 は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築くことを許されると、自ら出城に入って指揮を取る事となった。 こうしてこの出城は「 真田丸」と呼ばれるようになった。 真田幸村には、1600年に父・真田昌幸が指揮した故郷・上田城での、第2次上田城の戦いにおいて、馬出しを利用した戦術にて10倍もの徳川勢を撃退した経験があったのだ。 真田丸の大きさは東西180mほどの半円形の曲輪で、出口は後方と両脇にあった。 そして、三方には堀を巡らし、塀も備えて外側には三重の柵を敷いたと言う。 真田幸村が、手紙を送り大阪城に入った や、 ・ ら父の旧家臣らを中心に、 など5000で真田丸を守備した。 真田丸の戦い 1614年10月2日に、豊臣家は旧恩ある大名や浪人の募集を開始して、武器の買い入れて、総構の修理、更なる造営、櫓の建築なども開始。 真田幸村をはじめ、 、後藤又兵衛、毛利勝永、 、 、 、 など約10万が大阪城に入った。 これに対して徳川勢は約20万の大軍で、大阪城を取り囲んだ。 から発った徳川家康・ は を本陣として11月18日に到着した。 戦闘は11月19日の木津川口の砦においての木津川口の戦いから始まり、11月26日には鴫野・今福の戦い、11月29日には博労淵の戦い、野田・福島の戦いと激しい戦闘状態となった。 豊臣勢は数ヶ所の砦が陥落したため、11月30日に残りの砦も破棄して、全軍が大坂城に撤退。 そのため、徳川の幕府勢は、大阪城に近寄って完全に包囲。 徳川家康は、攻撃はせずに大軍で包囲する事での心理的圧力にて屈服させようと考えた。 真田丸の正面には前田利常12000の他、南部利直、 、榊原康勝などが数千、八丁目口・谷町口には 4000、 10000、他数千と26000以上が布陣。 対する真田丸には、真田幸村5000、八丁目口・谷町口に 、後藤又兵衛、長宗我部盛親など12000の合計17000が配置された。 一説によると も真田丸に入っている。 12月2日、前田利常は塹壕を掘り土塁を築くようにと命令を受けて、塹壕の構築を開始すると、真田丸の前方にある篠山と呼ばれる丘から、真田勢の鉄砲隊が狙撃して妨害。 前田勢は篠山からの狙撃に悩まされたあげく、それなら篠山を陥落させようと、ついに12月4日未明に行動を起こしてしまう。 前田勢の先鋒・本多政重、 長徳らが夜陰に乗じて慎重に篠山に向かうと、真田勢はなんと真田丸に撤退しており、誰もいなかった。 そして、夜が明けるとその真田勢は、そんな前田勢を嘲笑い、さんざんに愚弄したと言う。 これも真田幸村の巧みな作戦だ。 前田勢は徳川家康から攻撃するなと言われていたが、その挑発に我慢できず、12月4日の午後2時頃、真田丸への攻撃を開始してしまった。 真田幸村は、前田勢が充分に真田丸の城壁に辿りつくまで引きよせてから、鉄砲で一斉に攻撃開始した。 と言う武田旧家臣で前田勢にいた武将が唯一接近したとも伝わるが、前田勢は大損害を受ける。 この戦法も、父・真田昌幸が上田城で徳川勢相手に取った方法であったが、見事に真田幸村が再現して見せたのだ。 父は名将・真田昌幸と称えられてきたのに対して、その次男で14年も九度山で幽閉生活していた真田幸村は、すでに50歳近くなっていた。 単なる真田家出身の武将と言う真田幸村は、それまで無名と言っても過言では無かったが、この見事な戦い振りでその名が初めて世の中に知れ渡る事となったのである。 一方、前田利常は命令違反の家臣を怒り、すぐに兵を撤収させようとした。 しかし、その前田勢の突進を見た、八丁目口・谷町口の井伊直孝、松平忠直らも、功を焦り攻撃禁止の命を破って大阪城へ攻撃を開始してしまう。 そんな折りに、ちょうど大阪城内で火薬庫が爆発する事故が発生し、その凄まじい大音響と黒煙が大阪城から上がる。 幕府軍はこれを寝返りを約束していた南条元忠の手はずだと勘違いし、ほぼ全線で激しい攻勢に転じた。 当然、守る側が有利であったため、幕府軍は大損害となり、これらの惨状を知った徳川家康は全軍退却を命じている。 しかし、城壁からは鉄砲で狙撃をされていた為、物陰になんとか隠れている徳川勢は撤退にも一苦労したと伝わる。 徳川家康は各将を呼びつけると、軽率な行動を叱責し、以後、城攻めする際には、弾除けとなる竹束・鉄楯を必ず持って行くようにと厳命したと言う。 真田丸は大阪の冬の陣のあと、徳川勢によって徹底的に破却されたため、地形も変わってしまったとされる。 でも、明星高校の周りや、宰相山公園の周りが真田丸の推定地とされている。 上記は推定される真田丸の崖。 まさのこの崖の上が真田丸であったのであろうと想像がつく。 上記は宰相山公園の丘で、現在は、戦没者墓地となっている。 東側に隣接して がある。 真田丸の抜け穴 その三光神社に真田丸の抜け穴がある。 真田幸村が大坂冬の陣の時に、真田丸から大阪城へ繋がる抜け穴であるとの伝承になっている。 恐らくは、徳川勢が真田丸を攻める為に、途中まで掘った穴と推測できる。 現在は危険であるため、抜け穴の入口は「真田の 」の鉄の扉で閉ざされている。 かつては、真田幸村の鎧掛けとされる松の木もあったが、大阪大空襲で焼失している。 下記写真は、山門前にある「まんなおし地蔵尊」で、開運を導く地蔵として信仰されている。 126• 764• 112• 108• 128• 115• 113• 208• 162• 157 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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