ロマンティック ラブ イデオロギー。 ロマンティックラブイデオロギー

今、学生が論文のテーマに選ぶ「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」とは。|小島 雄一郎(リレーションシップアナーキー)

ロマンティック ラブ イデオロギー

今で黒人の差別、暴動についての、話題を多く見る。 僕は恥ずかしながら、つい15分前まで黒人差別なんてものは20世紀までの話かと思っていた。 マイケルジョーダン、スビーワンダー、ウィルスミス、バ、、、 僕が知っている黒人はみんなカでいうところのセレブしかいないことに気が付いた。 カの普通の人を僕はまるで知らない。 そりゃはなくなったし、で差別発言をすれば、正義感の強い僕じゃない誰かが嗜めてくれる時代になった。 でも実際に差別に対して怒ったり、悲しんだりしている人がいることを初めて実感した。 僕は抗議やデモというものがあまり好きではなかった。 なぜなら、そんなことをする暇があるなら制限されたルールの中でどう幸せになるかを考えた方が有意義だと考えていたからだ。 昨今のコロナ禍で、上では毎日のように日本の政府に対して文句を言っている人を見かけた。 これも一種のデモだろう。 ゾロゾロとプラカード持って大声をあげる20世紀型のデモから、を利用した21世紀型のデモに移り変わっただけで本質は一緒だと思っている。 30万円が貰えなくて怒ってデモする時間があるんだったら、今ある手持ちの財産でどう生き抜くか、どう楽しく過ごすかを考えた方がよっぽど有意義だし、そうやってこのコロナ禍の中でも売り上げを伸ばした企業主だっている。 そう考えていた。 僕はいつから政府や文化などの手の届かない相手に怒ることをやめのだろう。 僕は政治にまったく興味がない。 なぜなら興味を持つと文句を言いたくなってしまうからだ。 文句を言うのは僕にとってはストレスだ。 コロナ禍の中で日本中が政府に対してストレスを感じていたと思う。 でも僕はストレスフリーだった。 はなから政治で幸せになろうと考えていないからだ。 でも、今日で見たある動画がきっかけで、それが正しいことなのかよく分からなくなってしまった。 その動画は、黒人男性3人の動画だ。 1人は45歳で、今にも暴動に参加して行動を起こそうとしている。 2人めは31歳で、45歳の男性が暴動に参加するのを必死に止めている。 3人めは16歳の少年で、ただじっと31歳の男性の言葉に耳を傾けている。 この動画の凄いところは、3人とも同じ理由で怒っているのに、そこに意見の食い違い、言い争いが生まれているところだ。 1人めは「今やるしかない」と叫んでいる。 今行動をしないとまた同じことが起きる。 そんな悲劇を繰り返すくらいなら、今自分が死んでも現状を変える行動を取らなければならないと主張する。 2人めは今行動しても10年後も同じ悲劇が起こると叫んでいる。 悲劇が起きて、デモをして、それを何度も何度も繰り返している。 デモをしたところで現状は変わらないんだから、今むやみに被害を広める行為をやめて、違う方法、デモじゃない何かで黒人差別をなくさなきゃいけないんだと主張し、その役目を16歳の少年に託している。 3人めは何も言わずにただじっと、2人めの言うことに頷いている。 僕はカの歴史も分からないし、黒人の怒りも理解することはできない。 この問題をコロナ禍の日本と同列に考えしまってはいけないかもしれないけど、それでも僕の今までの考え方は間違っているように感じている。 僕らは3人めの少年にならなくてはいけなんじゃないだろうか。 今までの僕みたいに現状を変えることを諦めて、怒らないように生きるんじゃなくて、デモをして怒りをぶつけるんじゃなくて。 なにか新しい方法を探さなくちゃいけない。 そういえば数年前に、カで男性がをしている動画を見た。 あの行為の意味が今やっと分かった。 怒りをぶつけるじゃなくて、諦めるんじゃなくて、ハグすることで彼は現状を変えようとしていたんだ。 彼の結論はラブ&ピースだった。 僕の結論はなんだろう。 現状を変えようと思った時にすべきことはなんだろう。 分からない。 分からないけど、何か書きたい。 そう思ってこの文章を書いた。 この文章で世界を変えたいなんてこれぽっちも思っていなくて、ただ自分の中のこの感情を忘れたくないから書き残した。 僕も他人事ながら黒人差別は無くなればいいと思ってるし、日本のみんなが幸せになればいいなって思ってる。 そう思ってるから、これからは政治にちゃんと興味を持とう。 世界に興味を持とう。 そしてちゃんと怒ったりしてみよう。 でも怒りはぶつけずに、なにか別の方法を考えてみよう。 25歳になってやっと公民教育の意味を理解したのでした。 学校教育って素晴らしい。 最後に、今回の黒人差別の一件で亡くなられた方に、本当に心からご冥福をお祈りします。 gasawak.

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ロマンティック・ラブ・イデオロギー再考

ロマンティック ラブ イデオロギー

この連載について この記事は「生きづらさとジェンダー論を考える」という連載の中に位置づけられる。 ジェンダー論とは性に基づく社会的役割規範からの自由を求める思想であり、女性や男性(あるいはそもそもこのような二分法を破壊することも視野に入るだろう)が、その性ゆえに求められるものを浮き彫りにし、その文化的強制力を相対化したいと考えている。 いま、多くの人達が生き辛さを覚えている。 僕はその理由の一つはまぎれもなくこのような「べき論」によるものだと考えている。 べき論は文化の中に潜り込んでいて僕達を知らない間に縛り付け、抑圧する。 そのためにはまずそのような抑圧があること自体を可視化する必要があるだろう。 この連載ではあらゆる「ベキ論」をまずは明るみに出していきたい。 連載「生きづらさとジェンダー論を考える」 vol. 1 vol. 2 vol. 3 vol. 4 vol. 5 vol. 6 vol. 7 vol. 8 vol. 9 vol. 10 vol. 11 ロマンティックラブ・イデオロギー なんだか華やかな響きと「イデオロギー」という政治的なワードが組み合わされていると違和感を覚える人も多いでしょう。 ロマンティックラブ・イデオロギーとは「一生に一度の相手と恋に落ち、結婚して愛する子どもを育てることが素晴らしい」とする価値観のことです。 1990年代に性に関する様々な規範は大きく転換することになったのでこのような考え方に対して古臭いと考える人も少なくないでしょうが、多くの人がなんとなく共有している価値観であることもまた事実でしょう。 結婚後の恋愛は基本的にタブーですし、できちゃった結婚をするのはまさに出産や子育てと結婚がセットであるという認識があるからです。 一見、当たり前というか平凡なことを言っているようにも見えるこれがなぜイデオロギーと呼ばれるのか。 それは、恋愛と結婚と生殖(と育児)とをセットに捉えているところにあります。 実はこれは決してこれまで人類の常識だったものではないのです。 イデオロギーというのは社会制度の背景に隠れることも多いので、最早常識と化している様々なことも実はイデオロギーによって生み出されていることがあります。 恋愛-結婚-生殖についてもまさに同様のことが起きているのです。 恋愛、結婚、生殖 元々恋愛と結婚というのは必ずしもセットではありません。 個人の意思というよりも家による意思決定であった時代の方がはるかに長いのです。 近代になって個人の権利が急速に認められる中で、お見合い結婚から恋愛結婚に流れが移ったのは戦後1960年頃になります。 一生に一度の相手と結ばれることが尊ばれるようになるのはこのような恋愛が人生において重要な立場になったからこそです。 そしてそれゆえ、性関係などもまさにこの二人の間の中で閉じ込められることになりました。 それまでは例えば娼館での遊びは「粋」なこととすら考えられていたことを思えば大きな変化になります。 ロマンティックラブ・イデオロギーの二重性 しかし、ここにロマンティックラブ・イデオロギーの明確な矛盾があります。 それは、男性と女性に対する適用される基準が全く異なるというところにあります。 男性は出来るだけ多くの性体験をすることが良いことであるかのように社会的に評価されるのに対し、女性のそれに対する視線には明らかに嫌悪が交じるのです。 一対一の関係を尊ぶと言いながら、男性にはゆるく、女性には強くそれが押し付けられているのですから、このイデオロギーが矛盾に満ちていることはすぐにわかります。 この男女間の二重性に留まらず、女性に対しても二重の基準が適用されます。 それは婚姻関係にいる女性と、そうでない女性とに対する基準の違いです。 婚姻関係にないにも関わらず性関係を持つ女性は、このロマンティックラブ・イデオロギーからあぶれてしまっています。 彼女らは保護されず搾取される立場に立たされます。 そして、そのような女性が生まれる理由というのはロマンティックラブ・イデオロギーを持つ男性との関係性によるものです。 このイデオロギーに逸脱するような行為をする男性がいなくては、このような女性は生まれ得ない。 このような二重性の欺瞞に対して違和感を覚えている人も少なくないでしょう。 一対の異性愛者を特別扱いするイデオロギー これまた現在のイデオロギーを前提とする人には違和感があるはずですが、このような考え方には一対の異性愛者を特別扱いするという帰結が当然導かれます。 一生に一度ですから複数の関係は許されません。 また生殖と子育てが関わるので同性愛者は含まれません。 結婚という社会制度はこのイデオロギーを支える重要な基盤です(だからこそ同性婚というのは今のイデオロギーでは認めがたい)。 よく知られるところですが、日本にも同性愛文化はありましたし、それはギリシャもイスラームも同様です。 ロマンティックラブ・イデオロギーはそのような価値観を真っ向から否定し、暗に生殖と恋愛とを強く結びつけている役割もあるのです。 また、日本ではあまり主張を聴きませんがポリガミー(複数人との恋愛関係を良しとする考え方)の人からしても、このようなイデオロギーとは相性が非常に悪いものとなっています。 母性神話というイデオロギー このように、一生に一度の人と愛し合い子どもを産み育てるという価値観が同時に内包していたのは、母性神話という価値観でした。 近代になって個人の自由意志が認められるようになるタイミングは、都市化のタイミングでもあります。 すなわち、男性が外で仕事を、女性は家で家庭のことをという性別に基づく家庭内役割の分担が急速に進められたタイミングです。 ここで、急に女性にだけ育児に関わるあらゆる責任と権限が与えられることとなりました。 これは決してそれまでの時代に自明なことではありません。 例えば1780年代のパリでは21000人の子どもの内、母親に育てられたのはわずか1000人。 残り1000人は住み込みの乳母が、残りは遠く離れた雇われ乳母に里子に出され、5歳くらいになって働けるようになってから親元に戻されたと言います。 また、日本の江戸時代であっても、母親に期待された役割は出産であって、子育てはむしろ父親がやるという文化も当然にありました。 良妻賢母という言葉が生まれたのは1870年代頃。 3歳児神話(3歳までは子どもは母親の手によって育てられる方が良い)というのも1960年に発明されたものです。 現代では合理的な根拠はないと否定されています。 母親が育てるのが一番だ、という価値観はわずか数十年程度のものであり、しかもその合理的な根拠が無いと言われている側面も少なからずあるのです。 これは現代の人にとっては驚くべきことです。 父親より母親と一緒にいるほうが良い、当然、当たり前だとする考え方はロマンティックラブ・イデオロギーの中で自明の前提とされてしまいがちだからです。 いま揺れ動くイデオロギーと制度 さて、このように見てみると私達が自明の前提としていることが実は近代に発明されていった価値観であることがわかってきます。 そして結婚制度などはまさにこのような発明された価値観によって裏付けられていることも確かです。 一対の異性関係だけを優遇する結婚は税金の面でも様々な優遇が受けられます。 では、このようなイデオロギーが揺れ動くと何が起きるのか。 それは制度と実際に生きている人間との強い摩擦という形で現れます。 男性が稼ぎ、女性は家庭のこと。 それが良いとされる社会環境もイデオロギーも壊滅的なダメージを受けています。 にも関わらず、会社の昇給制度や報酬制度はこのイデオロギーの変化に対応できていません。 結婚制度はいまだに一対の異性愛者同士のものに限定されており、その優遇もその関係にだけ付与されるものとして機能しています。 婚外子についてもその取扱が厳しく(家、結婚、生殖の一体)、最近まで遺産相続においても明確な差別がありました。 連載「生きづらさとジェンダー論を考える」では、まさにこのような性やジェンダーに基づく生きづらさというのを、前提とするイデオロギーとそれに基づく制度が、現代に合わなくなってきていることを指摘するものになるのではと考えています。 これからしばらく、この連載を通して社会制度とイデオロギー、そして現代の人が感じる違和感について描いていきたいと思っています。 連載「生きづらさとジェンダー論を考える」 vol. 1 vol. 2 vol. 3 vol. 4 vol. 5 vol. 6 vol. 7 vol. 8 vol. 9 vol. 10 vol. 11 参考図書.

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現代の結婚観の基本。ロマンティックラブイデオロギーはいつまで続く?

ロマンティック ラブ イデオロギー

性的マイノリティーにと呼ばれる人達がいる。 日本語では無性愛者となる。 恋愛感情を持たず、他人に性的欲望も抱かない人達だ。 似たような言葉に(非性愛者)というのがあったが、だからという理由でに統合された。 非性愛者は恋愛感情は持つが、他人に対し性的欲望を抱かない人達で、今はの一部と見なされる。 最近の表記では「アロマンティック・」と書いてあれば恋愛感情と性欲の両方がない人だ。 ア(否定)+ロマンティック(恋愛的な)で、ロマンス(恋愛)の派生語。 以前のノンセクは「ロマンティック・」と書く。 を定義する言葉だから「アロマンティック・セクシャル」は出てこなくて当然なのだが、調べてもこれに該当する用語は見つからなかった。 相当数いるであろう「恋愛感情を持つことはないが性欲はあり、他人と性交することは可能」な人達は呼称さえない「見えざる属性」だ。 「相当数いるであろう」と書いたのはデータがあってのことではない。 自分の周囲を観察しての体感だ。 このタイプの人について特別研究されたことさえないのではないか。 何故なら「ごく普通のこと」だからだ。 そして、このタイプだからといってもたいして困らない。 結婚は子供を作るためと考えれば、性交さえできれば問題は生じない。 一方が恋愛を求めていると欲求不満になるが、双方が性欲と繁殖目的なら特に問題がないのだ。 恋愛は古来から小説や劇でよく使われるテーマであった。 にも見られ、もよく題材にした。 日本でもやなどで扱われたテーマだ。 そのため「人類普遍のテーマ」だと勘違いされている。 そこに混入してくるのが一夫一婦制のの結婚観だ。 (は本来、一夫一婦制ではなかった。 が一夫多妻制なのはその名残だ。 )一夫一婦制を普及するのに、これほど便利なはない。 他の相手に手を出せば「裏切り」であり「不実者」となるからだ。 はモノガミー(単婚)思想だ。 (も時期は分からないがモノガミー制になる。 ) この一夫一婦制を基本とした結婚制度にの「結婚の」を組み込んだものがロマンティックラブ・だ。 一組の男女が互いに、生涯にわたる愛と忠実を約束すること。 )徒以外には「神による組み合わせ」という意味はないから、「赤い糸」「運命の人」「ソウルメイト」といった世俗的な概念に変化している。 つまり、恋愛を動機とした結婚と性交を神聖視する思想だ。 日本で一般に恋愛のステレオタイプが広まるのは、何と言っても少女マンガの役割が大きい。 一般と言っても女子だけではあるが。 男子は少女マンガを読まない人が多い。 のテーマに恋愛が使われることが皆無ではないが、メインテーマではなくサブテーマだった。 恋愛を大きく取り扱ったのは『』(、1978~1981年にに連載)が最も早かったのではないだろうか。 続いて『タッチ』(、1981~1986年に少年サンデーに連載、アニメは1985~1987年放送)が大人気となり、テレビアニメ化されたことで広く知られるようになった。 (は『タッチ』の前に恋愛要素の強い『ナイン』『みゆき』を書いていて、『ナイン』は『』と同年に連載開始。 ) 一方、少女マンガの王道は恋愛であり、メインテーマだ。 少女達はそれを読んでは大恋愛・運命の出会いに憧れ、男子にそれを要求するようになる。 とはいえ、初期はフィクションとして捉えていた人も多かったろうし、それを現実に再現しようとするのは一部の人だったかも知れない。 そこに『タッチ』世代の男子が合流すると、双方が恋愛幻想を持つ同士となり再現率は一気に上がる。 マンガだけではない。 ドラマでも映画でも恋愛は大きなテーマで、しつこく再生産され刷り込まれ、「そうしたい」が「そうあらねばらない」へと変わっていく。 その時期が80年代後半くらいではないかと思う。 ここに来て、男子も「恋愛なんて馬鹿馬鹿しい」と声を大にしては言えなくなる。 相手(女性)を得るためには相手の要求に応えねばならない。 ステレオタイプなデートを重ね、「恋愛」が皆の「共通体験」へとなっていく。 そして恋愛が「」へと変わっていった。 事ここに至って、自由恋愛の意味が変わった。 自由恋愛とは何か。 男女交際がふしだらとされた日本では、結婚相手は親同士や仲介者の紹介で決めた。 そうなったのは当然ながら婚姻制度が法規定された明治以降なのだが、人の記憶はアテにならない。 昭和になれば、ずっとそうしてきたと皆が錯覚し始める。 戦後になり、新しいで「結婚は両性の同意による」とされた。 親の利権や都合による強請婚姻をやめさせる目的だ。 これが自由恋愛による結婚である。 本来の自由恋愛とは、「交際期間を経て結婚に至ること、親や周囲からの強請ではなく相手を自分で選ぶこと」だ。 (だから見合いという方法が取られ、「本人が決めた」ことにした。 さらに結婚準備期間を含め、一定の交際期間も設けられた。 これなら合法である。 ) それがどう変わったのか。 人々は「恋愛しないと結婚できない」と信じ込むようになった。 自分もそうだ。 恋愛をしたことがなかったから、自分は結婚できないと思っていた。 ところが日本人は恋愛が非常に下手だ。 感情表現が苦手だからだろう。 ちょうど文明開化の頃、日本人が体に合わない洋服を不格好に着込んでいたように、恋愛はそれまでの日本の文化に馴染まなかった。 結果、恋愛下手をこじらせて未婚者が大量に出るのが、見合い結婚が廃れた90年代から。 この傾向は年を追う毎に進み、最近では未婚率が社会問題となるまでになった。 そろそろ日本人は「恋愛という強迫観念」から自由になり、性欲と合理精神で相手を見繕って結婚してはどうだろうか。 結婚に恋愛は必須ではない。 それはオプションである。 出会いがないから結婚も出来ない。 それはもっともだ。 じゃあ出会いがあったら結婚はできるのか。 恋愛という手順を踏まないと、と考えると腰が引ける人は多いだろう。 昔の日本では貞操観念が低かったから何となくの流れで性交して、恋愛でもなくだらだら関係が続き、時期がきたからそろそろ結婚でもして落ち着くか、みたいなカップルが多かった。 感情表現が苦手な日本人にはこの方法のほうが合っているし、女性が誰でも面倒臭い大恋愛をしたいわけでもない。 男性はもっとしたくない。 そもそも男性の多数派は性交には興味があっても恋愛には興味が無いのではないか。 相手がそれを要求するから演じているだけで、自分自身にそれをしたい欲求はない人が多いように感じる。 (したいのは性行為だけだ。 )しかし、「恋愛していること」にしないと性交させてくれない。 大恋愛とか略奪愛は征服民族・狩猟民族の文化だ。 農耕民族はもっと大らかで曖昧な関係が文化に合っているのではないか。 村の祭で無礼講の乱交をしたり、夜這いで何となく関係が成立したり。 土着で侵入者のいない土地で長年暮らしてきたから、ものをハッキリ言わない。 こういう部分は農耕文化のソレのまま、恋愛だけは狩猟民族の真似をしろ、というのは無理筋だろう。 「合理精神」と上で書いたが、合理精神=金銭や出世の条件という意味ではない。 収入は最低限必要だろうが(暮らしていくには金が要る)、一人で暮らせる程度の収入がある者同士が二人で暮らすのは楽なはずだ。 それよりも「この相手と一緒に暮らしていくのは(物理的にではなく精神の健康面で)可能か?」「考え方・価値観は近いか?」「お互い無理な我慢をせず済むか?」のほうがよほど重要だ。 そして「過剰な要求はお互いしない」が大切だろう。 それが「合う」「相性が良い」の意味だ。 それだけだと気の合う友達止まりだから、プラスして「この相手と性交をして不快感はないか」が必用。 それだけ揃っていれば完璧と言って良い。 もう1つ提案したいのは、若い女性は能動的になろう、という点。 男性は昔ほどガツガツしてない人が増え、草食化などと言われている。 それなら待ちの姿勢をやめて自分から肉食化し、気に入った相手は押し倒すくらいの勢いで攻める必用がある。 相手に責任を転嫁するのを止め、自己決定・自己責任で動こう。 それを周囲がふしだらだのビッチだの言うのもやめろ。 どっちが仕掛けても良いじゃないか。 男女平等なのだから。 以上は「相手が欲しい人」の場合。 そんなことには興味がない、という人の価値観を否定するのもやめよう。 幸福の形は人それぞれ。 「結婚して一人前」だの「子供を持って一人前」だのの、古いステレオタイプ・偏見・押しつけは誰をも幸福にしない。 したい人は放っておいてもそうするのだから、本人の選択を尊重しよう。 その結果、非婚率が上がったとしても、それがどれほどの社会的損失だと言うのか。 そういう人達は昔から一定数いるが、何か困ったか。 言うまでもないことだが、ロマンティックラブに生きたい人の邪魔はしないし、その価値観も否定しない。 男性の中にも一部、恋愛脳と呼ばれる人達はいる。 人に押しつけるな、「それが当たり前」と言うな、という主張だ。 ロマンティックラブ・で強迫観念を抱き、皆がそうしなきゃいけないと囚われたり、重圧を感じる必要はないのだ。 Mitsusato-Yamada.

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