に けつ。 敗血症

突厥

に けつ

井穴 [ ]• 井穴は、経気が出(脈気の出ところ)を主り、主治が心窩満(心窩部の膨満感や緊張)。 陰経は井木穴(せいもくけつ)、陽経は井金穴(せいきんけつ)と呼ばれる。 井木穴 [ ]• 手陰経• 足陰経• : 井金穴 [ ]• 手陽経• 足陽経• : 滎穴 [ ]• 滎穴は、経気が溜(脈気が流れるところ)を主り、主治が身熱(体の熱)。 陰経は滎火穴(えいかけつ)、陽経は滎水穴(えいすいけつ)と呼ばれる。 滎火穴 [ ]• 手陰経• 足陰経• : 滎水穴 [ ]• 手陽経• 足陽経• : 兪穴 [ ]• 兪穴は注(脈気が注ぐところ)を主り、主治が体重筋痛(体が重だるく関節が痛む)。 陰経は兪土穴(ゆどけつ、と同じ経穴なので兪土原穴とも呼ばれる)、陽経は兪木穴(ゆもくけつ)と呼ばれる。 兪土穴 [ ]• 手陰経• 足陰経• : 兪木穴 [ ]• 手陽経• 足陽経• : 経穴 [ ]• 経穴は行(脈気が行くところ)を主り、主治が喘咳寒熱(呼吸困難、咳、悪寒や発熱)。 陰経は経金穴(けいきんけつ)、陽経は経火穴(けいかけつ)と呼ばれる。 経金穴 [ ]• 手陰経• 足陰経• : 経火穴 [ ]• 手陽経• 足陽経• : 合穴 [ ]• 合穴は入(脈気が入るところ)を主り、主治が逆気泄(逆気はのぼせ、泄はもらす)。 陰経は合水穴(ごうすいけつ)、陽経は合土穴(ごうどけつ)と呼ばれる。 合水穴 [ ]• 手陰経• 足陰経• : 合土穴 [ ]• 手陽経• 足陽経•

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」とある。 起源 [ ] 中国の史書にはいくつかの伝説が記載されている。 『周書』 「 突厥人はの別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏という。 別の部落を成した。 後に隣国に破られ、一族は尽く滅ぼされた。 10歲の男児がいたが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。 雌狼がいて肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。 隣国の王は男児の生存を聞くと、再び兵士を遣って殺した。 兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌狼は国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。 山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。 狼はその中に隠れ、10人の男子を生んだ。 10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。 阿史那はその一つである。 子孫は繁栄し、次第に数百家となった。 数世代を経ると、各々洞窟を出て茹茹()に臣従した。 彼らは金山(アルタイ山脈)の南側に住み、茹茹の鉄工となる。 金山の形が兜鍪に似ており、俗に兜鍪を突厥と言うため、それを号とした。 或いは云う。 突厥の祖先は索国の出で、匈奴の北に在った。 その部落大人(たいじん:部族長)は阿謗歩といい、兄弟が17人いた。 阿謗歩らは愚かなため、国を滅ぼした。 兄弟の一人である伊質泥師都は、狼から生まれ、風雨を呼び寄せる能力を持ち、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、四つ子を生んだ。 その一人である大児は踐斯処折施山に住み、山上にある阿謗歩の一族をから助けたため、主(あるじ)に推戴され、訥都六設となり、突厥と号した。 訥都六には10人の妻がいて、全ての子は皆母方の一族の姓を名乗った、阿史那は愛妻の子である。 訥都六設が死ぬと、10人の母は子の中から一人を選んで立てるべく、大樹の下に集り、木へ最も高く飛べた者を立てると誓った。 阿史那の子は幼かったが最も高く跳んだので、諸子から長に推戴され、阿賢設と号した。 」 『隋書』 「 突厥の先祖は平涼の雑胡で 、姓は阿史那氏。 後魏()のがを滅ぼしたため、阿史那は五百家をもって茹茹(柔然)に走り、代々金山に住んで鉄工に従事した。 その金山の形状が兜鍪のようであり、俗に兜鍪を突厥と呼ぶため、突厥を号とした。 或いは云う、その先祖は西海の北に国があったが、隣国に滅ぼされ、老若男女尽く殺された。 一児のみは殺すのに忍びず、足の筋と腕を切断して大沢の中に棄てた。 一頭の牝狼がいて、毎日そこで肉を与え、この男児に食べさせたので、死なずに済んだ。 その後、男児は狼と交わりを遂げ、狼は身篭った。 隣国の人間は再び人に命じて男児を殺させると、その側に雌狼が居た。 派遣された者は殺そうとしたが、雌狼は神によって、忽然として海東へ至り、山上に止まった。 その山は高昌の西北に在り、下ると洞穴があった。 雌狼が中に入ると、方200余里の草の茂る平坦地に出た。 その後、雌狼は10の男子を生み、その中の一姓が阿史那氏で、最も賢く、君長となった、故に牙門には狼頭の飾りを設け、本源を忘れていないことを示す。 」 学術的見解 突厥の起源はに遡ると考えられ、その原住地は上流域にあったとされる。 この地はが豊富であり、のちに突厥が「鍛奴(鍛鉄奴隷)」と呼ばれるほど製鉄技術に優れていたことを裏付ける。 彼等は支配時期に製鉄技術を学び、には鉄器の使用が普及していた。 やがて阿史那氏の突厥部は南のを越え、西北の,に移り住むと、その鍛鉄技術をもって急速に発展し、テュルク系諸族の中での最強部族となった。 歴史 [ ] 以下の記述は『』、『』、『』、『』によるもの。 勃興 [ ] 訥都六設(ナテュルク・シャド)の孫にあたる吐務は、大葉護(だいヤブグ)と号し、柔然の臣下であった。 吐務が死ぬと土門が後を継いだ。 5世紀後半は柔然隷属下の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していたが、に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。 制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、や西域との貿易を行い、初頭には西魏との間に正式な通商が結ばれた。 の12年()、北のが柔然を攻撃してきたため、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。 土門はこれに乗じて柔然に求婚した。 しかし、柔然の(在位: - )は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので激怒し、使者を送って罵った。 土門はその使者を斬るなり柔然の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢し、西魏に求婚した。 大統17年()6月、土門は西魏のを娶って妻とした。 この年、西魏のがしたので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。 元年()1月、土門は柔然を撃ち、懐荒の北にて大破した。 阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉へ逃れ、柔然の余衆は阿那瓌の叔父であるを立てて可汗とした。 土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。 最盛期 [ ] 北周・北斉・陳・後梁と突厥 伊利可汗が亡くなると、子の(在位: - )が継いだが、まもなく亡くなったため、その弟である(ムカン・カガン、在位: - )が後を継いだ。 木汗可汗は即位するなり柔然を撃ち滅ぼし、柔然可汗の鄧叔子は西魏に亡命した。 木汗可汗はさらに西の嚈噠(挹怛、)を破り、東のを敗走させ、北の(キルギズ)を併合し、諸外国を次々と征服していった。 これにより突厥の版図は、東が遼海(?)以西、西が西海()に至り、南は沙漠()以北、北は北海()に至る大帝国となった。 次に木汗可汗は西魏に鄧叔子の誅殺を請願した。 西魏のはこれを許可し、鄧叔子を青門外で殺した。 こうして完全に柔然を滅ぼした木汗可汗は、中国の北朝と好を結ぶようになり、互いに姻戚関係となる。 初めはとの両方から求婚されていたが、木汗可汗は北周を選び、3年()から4年()にかけての北斉討伐に参加した。 この戦いでは何の成果も上がらなかったが、その後も突厥と北周の関係は良好であった。 しかし、次の(在位: - )の時代になると、に滅んだ北斉の残党と組むようになり、たびたび北周の北辺を侵すようになった。 北周は何度か突厥と交渉し、2年()になってようやく北斉の残党であるを連行することに成功した。 内戦と東西分裂 [ ] 詳細は「 ()」を参照 、他鉢可汗が病死し、子のが即位したが、木汗可汗の子のが心服せず、制御できなかったので、大可汗位を爾伏可汗(ニワル・カガン)であったに譲った。 国人たちも「四可汗(乙息記可汗、木汗可汗、他鉢可汗、)の子の中では摂図が最も賢い」とし、摂図は正式に即位して沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)と号し、都斤山(鬱督軍山、)を都とした。 摂図(以後は沙鉢略可汗)は大邏便が今まで官位をもったことがないということだったので、阿波可汗(アパ・カガン)という称号を与えた。 2月、北周のがにし、が建国されると、北斉のだったが北方民族と結託して反乱を起こしたので、沙鉢略可汗はこれと合流し、臨渝鎮を攻め落とした。 その後も反乱軍は隋軍に勝利し、隋の北辺を侵した。 2年()冬、隋のは河間王の、の,、の、のをとし、長城を出て反撃に出た。 沙鉢略可汗は阿波可汗,らを率いて迎撃するが、敗走し、飢えと疫病に悩まされ、あえなく撤退した。 沙鉢略可汗は阿波可汗の気性が荒いのを危惧し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲撃し、阿波可汗の母を殺した。 これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の(タルドゥ・カガン)のもとへ亡命した。 このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に兵をつけて沙鉢略可汗を攻撃させた。 このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが離反し、阿波可汗に附いた(これがとなる)。 沙鉢略可汗は西の達頭可汗に悩まされ、東の契丹を畏れたので、隋に救援を求め、白道川内に移り住むことを許された。 その後、沙鉢略可汗は晋王のより補給をもらい、これにより阿波可汗を攻撃して捕えることができた。 開皇7年()1月、沙鉢略可汗は子を遣わして朝貢した。 この年、沙鉢略可汗の牙帳が火事になったため、沙鉢略可汗は火傷を負った。 その数ヵ月後、沙鉢略可汗は死去した。 遺言により弟のが立つが、甥のに譲ろうとして、両者譲り合いをした結果、結局遺言どおり、処羅侯が葉護可汗(ヤブグ・カガン)として即位し、雍虞閭は葉護(ヤブグ:大臣)となった。 しかし、即位後まもなくの ()で葉護可汗が流れ矢にあたって死去した。 国人たちは雍虞閭を立てて都藍可汗(在位: - )とした。 都藍可汗は早速遣使を送って隋に朝貢した。 開皇12年()は西突厥のと謀反を起こしたので、都藍可汗は大義公主を斬首した。 一方、都藍可汗は達頭可汗と敵対し、たびたび征伐し合ったので、文帝はこれを和解させ、双方は兵を引いた。 隋による離間策 [ ] 開皇17年()、沙鉢略可汗の子の染干は突利可汗と号して、勝手に隋と関係をもったことから、大可汗である都藍可汗は激怒し、隋と国交を断絶し、たびたび辺境を侵すようになった。 開皇19年()、隋は漢王のを元帥として都藍可汗を撃たせた。 都藍可汗は達頭可汗と手を組んで、突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。 突利可汗はと隋に逃げ込んだ。 6月、,は達頭可汗を撃ち、これを大破した。 文帝は突利可汗を拝して意利珍豆(在位: - )とし、を娶らせた。 なおも都藍可汗が啓民可汗を攻撃し、隋の辺境を侵すので、越国公の楊素,行軍総管の,太平公の,のの軍勢は都藍可汗を攻撃した。 この年の12月、都藍可汗が部下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗となって啓民可汗と対立した。 しかし、隋と組んだ啓民可汗の方が常に優位となった。 元年()、それまで啓民可汗に付属していた鉄勒の斛薛(こくせつ)部などの諸部が叛いたので、文帝は詔で楊素を雲州道行軍元帥とし、啓民可汗を率いて北征させた。 歩迦可汗はふたたび啓民可汗を攻めたが敗北し、に奔走した。 東突厥 [ ] 詳細は「」を参照 啓民可汗の代では毎年数回は隋に朝貢していたが、子の(在位: - )の代になると、隋朝の衰えに乗じて中国に侵入するようになり、朝貢を行わなくなった。 大業13年()5月、唐公のより援軍の要請があったため、始畢可汗は2千騎の援軍を派遣して隋朝打倒に協力し、その翌年()、隋が滅んでが建国された。 初め、始畢可汗は唐に使者を送って入朝させたが、2年()になってやとともに中国侵入を謀った。 しかし、始畢可汗はその年に亡くなってしまう。 (在位: - )の代になると、東突厥は頻繁に中国へ侵入し、略奪を行った。 唐はそのたびに東突厥を撃退するが、その勢いがおさまらず手を焼いていた。 しかし、元年()の部を始めとする諸部が東突厥に叛いたことに始まって、東突厥に臣従していた諸民族が次々と離反すると、貞観3年()、唐のは大規模な東突厥討伐を行い、小可汗の(テリス・カガン)らを投降させる。 その翌年(630年)には大可汗の頡利可汗が捕えられ、東突厥は一時滅んで唐の下に入る。 阿史那骨咄禄は政権の唐にたびたび侵入・略奪を行い、中国を苦しめた。 そんな中、唐朝は武則天の帝位簒奪によって一時的に滅ぼされ、周が建てられる()。 これに対し武則天は唐のを皇太子とすることで、東突厥の中国侵攻を思いとどまらせた。 その後の元年()、武則天が廬陵王に譲位して唐は復活を果たす。 晩年の阿史那默啜は西方攻略に忙殺され、鉄勒討伐中に戦死する。 毘伽可汗の死後は東突厥内部で争いが頻発し、短命な可汗が交代するようになる。 そして、この衰えに乗じた(ウイグル),葛邏禄(), ()(バシュミル)の3部族によって東突厥の可汗が殺され、東突厥は滅んだ。 西突厥 [ ] 詳細は「」を参照 西突厥は(在位:頃 - )のもとで最盛期を築いた。 、 ()。 統葉護可汗の死後内部分裂を繰り返し、2可汗並立の時代が続いた。 太宗の崩御に乗じてが一時的に勢いを盛り返すが、の討伐軍に敗れ、阿史那賀魯が捕えられると、西突厥も唐の羈縻支配下に入る。 羈縻政策下では、阿史那賀魯征討に功のあった,の2人によって西突厥諸部が統括され、その両家が代々可汗位を襲名し、唐の反乱鎮圧などに参加した。 年間( - )に弥射家の興昔亡可汗が途絶え、頃には、歩真家である十姓可汗のが ()(テュルギシュ)の(バガ・タルカン)に殺されると、西突厥の阿史那氏可汗が滅亡し、西突厥では突騎施部が台頭する。 以後、突騎施部は 黄姓と 黒姓に分かれて互いに争うようになった。 年間( — )の後は、葛邏禄(カルルク)族が盛んになり、黄姓と黒姓の突騎施二姓は葛邏禄に臣従し、その他は(ウイグル)に附くこととなり、ここにおいて西突厥は完全に滅んだ。 習俗・文化 [ ] 突厥はやなどと同様、であるので、氊帳()に住み、水草を追って移動し、とを生業とした。 老人を賤しみ、壮健な者を貴び、戦で死ぬのを重きとし、病で死ぬのを恥とした。 食事は肉を主食に酪(らく:ヨーグルトの類)を飲み、は作らずを作って飲む。 可汗は金銀の食器と黄金の家具を使用。 また、今までの遊牧国家同様、婚姻において、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟の妻となるの形式をとる。 刑法は、謀反を起こした場合、殺人及び姦人の婦、馬を盗んだ場合は皆死罪となる。 葬儀は死者をまず帳に留めて、近親の男女と羊馬を殺して帳前に陳列し、これを祭り、弔問者は7回顔に傷をつけて血と涙を流した後、死者を馬具や副葬品と一緒にする。 毎年諸貴人を率いて先祖が生まれたとされる洞窟を祭り、五月中旬には川の畔に人を集めて、多くの羊馬を殺して天神を祭った。 鬼神を敬い、巫覡を信じた。 突厥は、東は、西は,と、のを利用して東西交易を活発に行い、さまざまな文化を取り入れた。 文字・言語 [ ] 突厥は、において、以外で、日本の文字と同様に、比較的早いに独自の文字()を持った民族である。 そのことは、以後に、モンゴル高原で発見された数々のによって世に知られることとなった。 しかし、初めのうち(第一可汗国期)の公用語はやを使用していた。 突厥(テュルク)の言語はその名の通りを使用していたが、それは支配民族であるテュルク系の遊牧民のみで使用されており、可汗国全体の公用語としてはが使われていた。 それは当時、が交易において優越的な立場にあり、から中国に至るまでの地域でソグド語が広く使用されていたためである。 突厥碑文 [ ] 詳細は「」を参照 突厥は北方遊牧騎馬民族としては極めて早い段階で文字記録を残した。 それが「ホルホン碑文」などに代表される 突厥碑文である。 初めは/で記した碑文であったが、第二可汗国時代になって自分たちの文字()を用いて、自らの言語(テュルク語)を記すようになる。 これによって当時のテュルク語による多くの民族名や地名を知ることができる。 突厥(第一可汗国)時代の碑文• 『』…第4代の(タトパル・カガン、在位:572年 - 581年)の時代に建てられたもの。 ソグド文字/ソグド語(裏面は/)で記された。 第二可汗国時代の碑文• 『』…突厥文字/テュルク語で記された。 『』(キュリ・チョル碑文)…突厥文字/テュルク語で記された。 『』…突厥文字/テュルク語で記された。 『』( ()碑文)…突厥文字/テュルク語で記された(裏面は/)。 『』(碑文、碑文)…突厥文字/テュルク語で記された(裏面は漢字/漢語)。 宗教 [ ] 歴代の同様、突厥もを信仰していた。 しかし、(タトパルカガン、在位: - )の時代に彼がにしたということが中国史書、突厥碑文の両方に記されている。 経済 [ ] 戦争業と牧畜業を主として製鉄業や農業・手工業も行っており、突厥人は皆武芸を修練し戦争に参加したとある。 多くの奴隷を抱える奴隷制社会でもあり、供給源は犯罪者・戦争捕虜・略奪による拉致などで、征服部族は奴隷的使役に就かされた。 奴隷や隷属部族は農業や手工業のほか牧畜業や戦争にも使用されたが、苦役を課された隷属部族の反乱が絶えなかった。 阿史那氏の中から任命される。 阿史那氏の中から任命される。 東突厥の以降は小可汗の代わりとして機能した。 吐屯(トゥドゥン:Tudun)…中央から派遣され、被支配諸族の監視・徴税をおこなう官職。 阿波(アパ:apa)• 達干(タルカン:Tarqan)• 閻洪達• ミュラーによれば「指揮官」の意。 護雅夫は「命令する」を意味する動詞buyurの名詞形で「命令するもの」とした。 などおよそ28の官職がある。 これらの官職は代々によって受け継がれ、父兄が死ぬと子弟が後を継いだ。 また、権限の範囲がはっきりとせず、定員も無かったとされる。 可汗(カガン) [ ]• 基本は父子相続だが、(在位: - )以降、兄弟相続の傾向にあり、協議の決定は先代の遺言や、母親の尊卑に左右される。 小可汗…大可汗によって選ばれ、基本的には東西に1人ずつ置かれる。 即位 可汗が即位するとき、その近侍重臣らは新たに即位する者をフェルトで担ぎ、太陽のまわる方向に9回まわし、1回ごとに臣下が拝礼する。 拝礼し終わると、新可汗を馬に乗せ、絹の布切れで気絶寸前まで首を絞める。 ゆるめたら「おまえは何年可汗になっていれるか?」と問う。 新可汗は意識が乱れていて年数を明確に考えることができない。 臣下らはその答えた年数で可汗の在位年を計るのである。 歴代君主 [ ] 突厥部 [ ]• 訥都六設(大児)…伊質泥師都の子• 阿賢設…訥都六設の子• 大葉護(吐務)…訥都六設の孫• (土門)…大葉護の長子 突厥可汗国 [ ]• (イリグカガン、土門、ブミンカガン)( - )…柔然から独立し突厥可汗国を開く。 (科羅、逸可汗) ()…伊利可汗の子(『隋書』では弟)• (ムカンカガン、俟斤、燕都)( - )…乙息記可汗の弟。 柔然を滅ぼし、中央アジアのを攻略して最盛期を築く。 (タトパルカガン)( - )…木汗可汗の弟• ()…他鉢可汗の子• (イシュバラカガン、摂図)( - )…乙息記可汗の子• (大邏便)( - )…木汗可汗の子• (ヤブグカガン、処羅侯)()…摂図の弟• (雍虞閭)( - )…摂図の子 東突厥 [ ]• (染干)( - )…沙鉢略可汗の子、都藍可汗の弟。 (咄吉世)( - )…啓民可汗の長男、隋に攻め入り朝貢を停止する。 (俟利弗設)( - )…啓民可汗の次男• (イリグカガン、咄苾)( - )…啓民可汗の三男、唐に降伏し、東突厥は一時滅ぶ。 (テリシュカガン、什鉢苾)( - )…始畢可汗の子 羈縻(きび)政策下• 乙弥泥孰俟利苾可汗()( - )…頡利可汗の族人• (斛勃)(? - )…突厥別部• ( - )• ( - )…頡利可汗の従兄の子 突厥第二可汗国• (クトゥルグ、イルティリシュカガン)( - 頃)…頡利可汗の疏属、唐から独立して東突厥を再興させる。 (カプガンカガン)(頃 - 殺)…骨咄禄の弟• (ビルゲカガン、默棘連)( - 殺)…骨咄禄の子• (イネルカガン)()…毘伽可汗の子• (テングリカガン)(734年 - 殺)…伊然可汗の弟• (クトゥヤブグ)( - 殺)• (イルティリシュカガン)( - 殺)…拔悉蜜部の長• (オズミシュカガン)(頃 - 殺)…判闕特勒の子• (鶻隴匐)(744年 - 殺)…烏蘇米施可汗の弟 (、によって滅ぶ) 西面可汗 [ ]• (室点蜜、瑟帝米、イステミ、シルジブロス、ディザブロス)(562年 - )…大葉護の子、伊利可汗の弟• (玷厥、歩迦可汗、タルドゥカガン)( - )…室点蜜の子 西突厥 [ ]• (大邏便、アパカガン)( - )…木汗可汗の子• (ニリカガン)() …鞅素特勤の子、木汗可汗の孫• (達漫、曷薩那可汗)( - )…泥利可汗の子• (頃 - )…達頭可汗の孫、泥撅処羅可汗の叔父• (トンヤブグカガン)( - )…射匱可汗の弟• ( - )…統葉護可汗の伯父• (咥力特勤)( - )…統葉護可汗の子• (泥孰莫賀設、大渡可汗、奚利邲、テュルクカガン)( - )…族人により擁立される• (同娥設、イシュバラティリシュカガン)( - )…咄陸可汗の弟• (欲谷設、イビルテュルクカガン)( - )• (莫賀咄乙毗可汗)( - )…沙鉢羅咥利失可汗の子• (薄布特勤、畢賀咄葉護、イビルイシュバラヤブグカガン)( - )…咥利失可汗の弟(伽那設)の子• ( - )…莫賀咄乙毗可汗の子• 沙鉢羅可汗(、イシュバラカガン)( - )…曳歩利設射匱特勤の子 羈縻(きび)政策下 [ ] 弥射家 弩失華部 昆陵都護府下• 興昔亡可汗()( - )…室點密可汗の五代の孫• 興昔亡可汗()( - ・693年)…弥射の子、左豹韜• ( - )…元慶の子 歩真家 咄陸部 蒙池都護府下• 継往絶可汗()( - 666年・667年)…弥射の族兄• 継往絶可汗(、唐に従属後は竭忠事主可汗)( - )…歩真の子• 十姓可汗()( -? )…斛瑟羅の子• 十姓可汗()( - )…懐道の子(阿史那氏断絶) 突騎施の政権 [ ] 酋長(部族長)、可汗• (懐徳郡王)(? - )…斛瑟羅の配下(莫賀達干)• (金河郡王、十四姓可汗、帰化可汗)(706年 - 、可汗位: - 709年)…烏質勒の子• (忠順可汗)(709年 - 、可汗位: - 738年)…娑葛の配下• 可汗(骨啜)(可汗位:738年 - )…蘇禄の子• (可汗位:738年 - 739年)…黒姓可汗• (738年 - 、可汗位: - 744年)• 伊里底蜜施骨咄禄毘伽(十姓可汗)(突騎施可汗: -? 、十姓可汗:744年 -? )…黒姓出身• 移撥(十姓可汗)(可汗位: -? 登里伊羅蜜施(可汗位: -? )…黒姓可汗• 阿多裴羅(可汗位:? )…黒姓可汗 脚注 [ ] []• は「とっくつ」と読むべきだと主張した。 伝統的に「突厥」の「厥」はクツと読む。 『大漢和辞典』は両音を載せる• (トニュクク碑文)• 『突厥与回紇史』、『回紇史』参照• 『突厥与回紇史』、『勅勒与柔然』参照• の Josef Marquart 、の Paul Pelliot の説。 Pelliot,P;L'origine de T'ou-kiue,nom chinois des Turks,T'oung Pao,XVI,1915. Pulleyblank の説。 Pulleyblank,E. ;The Chinese Name for the Turks,Journal of the American Oriental Society,85-2,1965. 平凡社、1972• ミュラー F. コノノフ A. Kononov の意見。 Kononov,A. このうちの一人は(キルギス)となる。 『周書』列伝第四十二 異域伝下• 他の史書と大きく異なり、おそらく錯誤• 『隋書』列伝第四十九 北狄• 楊 2008,p16,29• 『周書』(列伝第四十二 異域伝下)、『隋書』(列伝第四十九 北狄)、『旧唐書』(列伝第一百四十四上 突厥上)、 『新唐書』(列伝一百四十上 突厥上、列伝一百四十下 突厥下)• 『』、『周書』異域伝下「其書字類胡,而不知年曆,唯以草青為記。 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』• 護・岡田 1990,p118• 護 1971年,p43• 護雅夫『古代トルコ民族史研究1』p225-438• 『周書』列伝第四十二 異域伝下 参考資料 [ ]• 『』(列伝第四十二 異域伝下)• 『』(帝紀第三、帝紀第四、列伝第四十九 北狄)• 『』(本紀、列伝第一百四十四上 突厥上)• 『』(列伝一百四十上 突厥上、列伝一百四十下 突厥下)• 護雅夫『古代トルコ民族史研究1』(山川出版社、1971年)• 、、『騎馬民族史2-正史北狄伝』(、)• 『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(、、)• ・『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』(、 )• 『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(、、)• 林幹『突厥与回紇史』(内蒙古人民出版社、2007年、)• 楊聖敏『回紇史』(広西師範大学出版社、、) 関連項目 [ ].

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に けつ

感染症とと敗血症の関係。 敗血症(はいけつしょう、: sepsis)とは、に対する制御不能な生体反応に起因する生命を脅かすような障害のことで、患者数は世界で年間約2700万人。 そのうち、約800万人がしていると報告されている。 での年間死亡者は10万人を超えると推計されている。 国際的な診断基準では、感染症が疑われSOFAスコアがベースラインから2点以上増加しているものを敗血症としている。 ・・感染症 の全身に波及したもので、非常に重篤な状態であり、無治療では、 DIC 、などからに至る。 元々の体力低下を背景としていることが多く、治療成績も決して良好ではない。 これに対し、などから細菌が血液中に侵入しただけの状態はと呼ばれ区別されるが、医学専門以外のメディア等では敗血症として表記されることも多い。 また、敗血症と SIRS は似た概念だが、全身性炎症反応症候群は感染によらない全身性のをも含む概念である。 末梢血管の拡張の結果、末梢組織に十分な栄養とが届かず、臓器障害や臓器灌流異常、低下が出現する。 進行すれば錯乱などのを来たす。 播種性血管内凝固症候群を合併するとが生じるために多臓器が障害()され、またが消費されて出血傾向となる。 起炎菌がなどのであると、菌の産生した(エンドトキシン)によってが引き起こされる。 またとの混合性酸塩基平衡異常を来たす。 severe high feverの他、体温38. 検査 [ ] 各種感染症検査の他、、やの測定が行われる。 ショックの確認のために収縮期 90 や値 4 などを確認する。 全身性炎症反応症候群の診断には下記項目の測定が必要である。 下記の4項目のうち2項目を満たした場合、全身性炎症反応症候群と診断される。 診断基準 [ ] ICU での治療が行われている患者と非集中治療室で治療を受けている患者では基準が異なる。 Sequential Organ Failure Assessment;SOFA のスコアを利用する。 2 1. 2〜1. 9 2. 0〜5. 9 6. 0〜11. 9 > 12. 2未満 1. 2〜1. 9 2. 0〜3. 4 3. 5〜4. 非集中治療室 quick SOFA qSOFA 2項目以上で敗血症を疑う。 最終診断は集中治療室患者に準じる。 qSOFA• 意識レベルの低下• 収縮期血圧 100mmHg 以下 病態 [ ] 全身性炎症反応症候群のうち、感染を基盤とする全身性炎症反応症候群が敗血症である。 言いかえると敗血症は感染を基盤として発症する急性循環不全である。 初期には血液分布異常性ショックを呈する。 の障害が深くかかわると考えられており、の血管内皮が障害されればが起こり、の血管内皮が障害されればが起こり、四肢の血管内皮細胞が障害されればが起こると考えられている。 初期には高心拍出量性ショックを示すが、血管内皮細胞障害が進行すると低心拍出量ショックに移行する。 適切な負荷を行っても低血圧が継続する場合もある。 治療 [ ] Surviving Sepsis Campaign Guideline SSCG という、診断と治療に関するガイドラインがある。 surviving sepsis campaign guideline 2008 SSCG2008 では 、循環管理だけではなく感染対策、続発する臓器不全や周辺病態に対しての集中治療が示されている。 内容としては初期、感染症治療、急性呼吸障害や障害の管理、管理、その他に分かれている。 特に初期蘇生の循環管理が early goal-direct therapy EGDT として纏められている。 初期治療の第1選択は、輸液負荷を行い、バイタルサインや臨床症状の推移を見極める。 近年の研究から、体温を冷却しながら治療を行った方が、冷却しない場合に比べて死亡率が低かったという結果が得られている。 初期対応 [ ] 治療開始が遅れると患者の救命率が低下するので、敗血症を疑った場合は1時間以内に6項目に注目した初期対応を行う。 高濃度酸素投与• 血液培養• 広域抗菌薬の静脈投与• 細胞外液による輸液蘇生• と値のチェック• 正確な時間尿量の測定 EGDT [ ] 初期蘇生の循環管理 early goal-direct therapy の略。 敗血症では適切なを1時間以内に投与することを推奨している。 これは1時間投与が遅れると7. この場合は広域な抗菌薬を使用する。 そして速やかに大量輸液を行う。 通常最初の6時間で 6〜10 lの輸液が必要となる。 人工呼吸器管理をしている場合は胸腔内圧が高くなるので 中心静脈圧を 12〜15mmHg を目標とする。 中心静脈圧を保っても 平均血圧が 65mmHg を下回るのならばの投与を開始する。 やが用いられる場合が多い。 平均血圧が 90mmHg 以上となった場合は()を併用する。 なおEGDTを行う場合は大量輸液によって肺の酸素化が障害される場合が多く、人工呼吸器管理となることが多い。 急性肺障害 ALI に基づいて呼吸管理する場合が多い。 その他の治療 [ ] 昇圧剤の選択 ドブタミンは充分な輸液がなされていないと血管拡張により血圧の低下を招きやすい。 はノルアドレナリンを用いることが多い。 副腎不全対策 少量療法を行うことがある。 ならば、1日200〜300mgの3〜4分割または持続静注で7日間行う。 持続濾過透析 抗療法として行うこともある(PMMA-CHDFなど)。 吸着 播種性血管内凝固症候群の対応。 ストレス性潰瘍 やの投与。 栄養管理 を優先する。 疫学・啓発 [ ] 9月13日は「世界敗血症デー」となっている。 日本集中治療医学会、日本救急医学会は2019年から、日本国内初となる敗血症の網羅的調査を始めた。 この2と日本感染症学会は「日本敗血症連盟」を結成して、救命率向上のため早期診断の啓発活動を行っている。 脚注 [ ]• 佐々木淳一• 日本集中治療医学会 日本救急医学会 日本感染症学会(2020年2月15日閲覧)• (2020年2月13日)2020年2月15日閲覧• 『日本版敗血症診療ガイドライン』2013年版による。 日経メディカル(2019年2月7日)2020年2月15日閲覧• マニュアル家庭版(2020年2月15日閲覧)• 『Dr宮城の教育回診実況中継』• Surviving Sepsis Campaign: international guidelines for management of severe sepsis and septic shock: 2008、 Crit Care Med、2008年1月;36 1 :296-327. PMID:18158437• (2015年8月14日)2020年2月15日閲覧• Robson WP, et al. Br J Nurs. 2008;17:16-21. 『日経メディカル』2017年10月号(2020年2月15日閲覧) 参考文献 [ ]• 『敗血症診療ガイドライン』• 日本集中治療医学会 Sepsis Registry 委員会、2013年「 」『日本集中治療医学会誌』Vol. 20:pp. 124-73。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• メルクマニュアル 家庭版• 高松赤十字病院• 日本集中治療医学会 敗血症情報サイト.

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